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かんとれ!

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少し前になるが、テレビで「ねぶた祭り」のねぶたを製作する女性の特集を見た。





父親がねぶたを製作する姿に感動して、自分もねぶたを作ってみたいと思ったらしい。



彼女の決意は生半可なものではなく、ねぶた製作者としての父親の意思をどうしても継ぎたいというものだった。







しかし、厳格な決まりがあるわけではないようだが、ねぶたの製作は女人禁制なのだそうだ。



彼女の父親は、教えを請う娘に一切、指導しなかった。





娘は、ねぶた製作現場に行っても、ただ見ているだけだった。




それでも、彼女は全く教えてくれない父親の作業場に、3年間通いつめた。



見学から得た情報をノートに整理し、なんとなく体系がつかめるようになっていた。






そして、自分でもねぶたを製作してみたのである。





父親の弟子より光る才能を見せ始めた娘に、ようやく父親もアドバイスするようになる。




昨年度、彼女のねぶたは優秀賞に選ばれた。






インタビューに答える彼女が言った。



「振り返ると色んな困難を乗り越えてきたけれど、好きなことを無我夢中でやっているときには、困難とは感じなかった。」





これぞ、「至言」である。



前回の続きである。







ニギハヤヒ尊がナガスネヒコと関西地方を共同統治している頃、銅鏡を携えた「やまと」の人たちが、この地を目指し出す。




記紀で言うところの、「神武東征」だ。





「神武東征」のストーリーでは、神武天皇に、ニギハヤヒ尊、ヤタガラス、土蜘蛛といわれる土着民が味方する。




ニギハヤヒ尊は、盟友ナガスネヒコを裏切ってまで、神武天皇に味方するのだが、その前に宝物を見せ合う。




そして、共に「天降族」であることを確認しあうが、神武天皇の宝物のほうが立派だったため、ニギハヤヒ尊は神武に従う決意をかためるのである。



この際に見せ合った宝物とは、ニギハヤヒ尊が「剣」であり、神武は「鏡」だったのではないだろうか?




ニギハヤヒ尊は、祖国の九州で実家が「鏡」を携える「やまと」の軍門に降ったことを知っていたため、神武に抵抗するのをやめたのだと想像するのである。




また、ヤタガラスは、太陽神そのものの象徴とされており、カラスの黒色は太陽の黒点を表すとされている。




すなわち、「鏡」=「太陽」=「ヤタガラス」=「神」であり、神武天皇は神を味方に付けたと表現しているのであろう。




最後の土蜘蛛の民の協力は、三種の神器に勾玉が加えられたエピソードに繋がっていくのである。





かくして、遠祖は主従関係にあった、越人同士の銅鐸文化と銅鏡文化の対決は、銅剣文化と縄文文化の協力を得た銅鏡文化の勝利で幕を閉じる。




ナガスネヒコが敗れたあとの、銅鐸は、すべて回収され鋳なおされたか、土中深く埋められてその祭器としての役目を終えるのである。





(完)

前回の続きである。





銅鏡を携えた「やまと」の人たちは、いきなり東にむかったのだろうか?



その前に、「剣」を携えた人たちが、東に向かっている。






「出雲」と「剣」は切っても切れそうに無い。




「出雲」も「奴国」と同じ文化に属すると思われる。






また、記紀には、ニギハヤヒ尊がすでに関西地方を抑えており、No.2のナガスネヒコと共同統治していた

との記述がある。




このニギハヤヒ尊は、物部氏の遠祖にあたる。




物部氏といえば、「剣」と切っても切れない関係にあるため、やはりニギハヤヒ尊も「奴国」系の先住渡来人だと考えられる。




では、No.2のナガスネヒコはどうか。




ニギハヤヒ尊とは異なり、関西で育った彼は、越が滅亡した際、日本に直接渡海してきた亡命貴族の末裔なのではないだろうか。




彼らは、銅鐸文化を開花させていた。




越から出土した陶製の鐸は、貴族階級の墳墓から発掘されている。王墓からの発掘ではないのだ。




一方、越の王室は、山東半島、朝鮮半島を経て、ようやく日本に入ってきた。


その間、同じ文化を共有していた越人同士も、百済人との交流などを経て異なる文化を形成するに至ったのだ。




(つづく)





前回の続きである。





筑紫の日向=伊都国の領内に、「山門(やまと)」と言われる場所がある。



(過去ブログ【ヤマトの移動】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11346394679.html





朝鮮半島にいた「倭人」たちは、続々とこの「やまと」をめがけて渡海してきた。





そして、この地域の人口が膨れ上がっていった。


狭い地域で増えた人口を養えなくなった「やまと」の人達は、新天地を目指して方々に散っていくのである。




日本のいたるところに「大和」や「山門」など「やまと」という地名が多いのはそのせいではないだろうか。




また、そのプロセスでは、奴国を中心とする「剣」を携える先住渡来人たちとの紛争もあったことだろう。




しかし、朝鮮半島にいた倭人や百済の力を背景に、「やまと」の人々は勢力を次第に拡大し、奴国も軍門に降ることになった。





そして、「銅鏡」を携えた「やまと」の人たちは九州北部を中心に勢力を蓄えると、いよいよ東に進出するのである。





(つづく)


前回の続きである。





私は以前、揚子江文明の子孫たちは、太陽神を崇めていたという内容でブログにアップした。


{過去ブログ【鳥居は鳥が居る場所】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11154821333.html





朝鮮半島西岸に建国していた亡命越国(倭)の王室でも、太陽神を崇めていたことだろう。




そして、太陽と同じように光り輝く「銅鏡」を神聖視した。






その「銅鏡」を携え、「倭」の人たちは、対馬、壱岐、小呂島、能古島を経て、糸島に上陸する。




小呂島、能古島を経由した根拠は、イザナミ尊とイザナギ尊が日本を生む足がかりとした島が、「於能古呂島」だったからだ。




また、能古島と糸島の対岸にある小戸の浜を、昔は「アワギ原」と呼んだ。




このアワギ原でイザナミ尊は、イザナギ尊を追って足を踏み入れてしまった黄泉の世界での穢れを、洗い清めるのである。






さらに、当時はまだ「島」だった糸島半島に「天降神社」が多いことも過去のブログにアップした。


(過去ブログ【神々の水平移動】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11170804798.html



とにかくニニギ尊の「天孫降臨」は、糸島半島を経由して、「筑紫の日向」に降り立ったストーリーなのである。




島だった糸島から、狭い海峡を隔てた対岸が、「筑紫の日向」だ。



いまでもこの近所に日向峠(ひなたとうげ)というものがある。





そして、ここは伊都国があった場所である。



伊都国は、奴国とは別に福岡市西区で栄えた都市国家だ。





「魏志倭人伝」にもここに「大卒(だいそち)」という軍の駐屯地が置かれたという記載がある。



後の邪馬台国連盟国家の中で、No.2のポジションにいた都市国家なのだ。





「銅鏡」を携えた朝鮮半島から渡ってきた「倭人」は、伊都国を足がかりに勢力を拡大していくのだ。




(つづく)








前回のつづきである。





朝鮮半島西側に建国した越の国は、当初、「越」と呼ばれていたが、そのうち「倭」と呼ばれるようになった。





「越」と「倭」は、共に古代はWoとかWuと読み、同じ発音だったのだ。






また、古代の文献から、朝鮮半島にも「倭国」があったことは分っている。




よって、亡命越国は、百済と親密な関係を築きつつ、国体を維持していたのではないだろうか。







このことを可能にしたのは、百済の「檐魯(タムロ制」だ。





檐魯(タムロ制」がどういう制度だったのかは、私の過去のブログを参照して欲しい。


(過去ブログ【檐魯(たむろ)制とは】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11453124752.html





ポイントだけ言うと、徳川御三家のように、主家の血が途絶えても、分家から養子が来て本家を継ぐという制度である。





「百済」の場合は、この制度が拡大的に活用され、王家だけでなく、地方の有力領主も、すべて檐魯(タムロ制でたらいまわしされていたようなのだ。



この檐魯(タムロ制に、亡命越国の王室も加わっていたように思えるのだ。







いずれにせよ、亡命越国の王室は、「倭」と呼ばれながら百済王室と親密な関係を築き、血のクロスオーバーを重ねながら、命脈を保つのである。




そして、いよいよ日本列島に入植する。





(つづく)




前回のつづきである。





「百越」と「百残」と「百済」。なんか似ている。






ここで、「百済」の起源を紐解いてみよう。




「百済」は、もともと「高句麗」の王室から別れた国だ。




「百済の起源」はウィキペディアによると次のように紹介されている。




高句麗の始祖である朱蒙の三子の温祚が百済を建国した。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄していないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になったという。また初め百家で海を渡ってきた(百家済家)ので「百済」としたともいう。





大変謎の多い、国家建設にまつわる話である。





つまり、百済は兄弟が別々に打ち立てた国であり、当初は2つ存在したと言うことになっている。



また、朝鮮半島の西側は、朱蒙の息子たちが別々に進軍しても、国家を建設できるほど混沌とした状況だったことも読み取れる。





この混沌とした朝鮮半島西側に、越国亡命政権も国家を建設した。




(つづく)



前回のつづきである。





なぜ銅鐸文化が関西地方に栄え、銅剣文化が九州地方を中心として栄えたかと言う仮設を説明してきた。






では、銅鏡文化はどこから来たのか?





これは、誰も分らない。なぜなら、皇室の起源にまつわる話になるからである。



しかし、また大胆に仮説を打ち立ててみよう。







私は、過去のブログで滅亡した越の王室は、山東半島に亡命政権を築いたとアップした。


(過去ブログ【呉越同舟】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11155520427.html )


海を直接渡って直接日本に来た、越国の貴族や特権階級とは別ルートで亡命を図ったのである。





弱体化した組織に対して中国の戦国時代の世は甘くなく、その後、山東半島の亡命政府は、すぐになくなってしまう。

こうして歴史の表舞台から、越王室は消えたのである。




しかし私は、彼らはその後、朝鮮半島に渡ったのだと思うのである。




ちょうどその頃、「百残」という国が出来ている。




「百越」になんとなく似ているではないか。




(つづく)







前回の続きである。





日本に来た、越国人達は九州には定住できなかった。






その理由を私は、九州にはすでに亡命してきた「呉人」が住んでいたからではないかと思う。




「呉国」は、揚子江の流域に栄えた、「越国」とは北境に位置した国である。



周王朝と親戚関係にあり、王は同じ「姫」性を名乗っていた。





その「呉国」は、紀元前473年に「越国」によって滅ぼされる。





「越」より140年も前に国を失った呉人達は、朝鮮半島を経由して、北九州から日本に入っていた。





なぜそういえるかと言うと、「奴国」の存在があるからである。




奴国は現在の福岡に位置していた国であり、後漢書に「太伯の末」と紹介されている。




「太伯」とは、「呉国」の遠祖にあたる人物であり、呉国王室の血をひく者が九州にいたとうことである。




以前にも、ブログにアップしたが、「九州」とは周王室が「中国」を指すときに用いた雅号である。

(過去ブログ【九州と、大宰府と呉の太伯】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11149832823.html )





九州を中国と見立てて、この地に新天地を開こうとしていた意気込みを感じる。




彼らは「剣」をもって、九州を支配下におくため、好戦的な日々を送っていたことだろう。





亡命「越貴族」達の住める場所は無かったのであろう。




(つづく)






前回の続きである。





ここからは、想像の翼を羽ばたかせて、仮説を立ててみたい。






銅鐸文化を日本で開花させた揚子江流域に住む、漢民族とは異なる文化を持つ人たちが、日本にやってきた。




紀元前300年頃の話である。




彼らは滅亡した越国から亡命してきたボートピープルだった。




農民であれば逃げる必要がないため、彼らは貴族階級や特権階級の人たちだったのではないだろうか。






現代でも、揚子江流域の漁民が潮の流れに乗って九州にたどり着くことがしばしばある。





当然九州に上陸したのだろうが、その後、関西地方に定住することになった。




なぜだろう。







(つづく)