銅鐸にまつわる日本建国の仮説(8) | かんとれ!

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前回の続きである。





筑紫の日向=伊都国の領内に、「山門(やまと)」と言われる場所がある。



(過去ブログ【ヤマトの移動】http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11346394679.html





朝鮮半島にいた「倭人」たちは、続々とこの「やまと」をめがけて渡海してきた。





そして、この地域の人口が膨れ上がっていった。


狭い地域で増えた人口を養えなくなった「やまと」の人達は、新天地を目指して方々に散っていくのである。




日本のいたるところに「大和」や「山門」など「やまと」という地名が多いのはそのせいではないだろうか。




また、そのプロセスでは、奴国を中心とする「剣」を携える先住渡来人たちとの紛争もあったことだろう。




しかし、朝鮮半島にいた倭人や百済の力を背景に、「やまと」の人々は勢力を次第に拡大し、奴国も軍門に降ることになった。





そして、「銅鏡」を携えた「やまと」の人たちは九州北部を中心に勢力を蓄えると、いよいよ東に進出するのである。





(つづく)