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かんとれ!

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プロセスこそ大切。
キーワード応用、朝礼、
多読・速読、
仮説と検証、
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前回のつづきである。



前回までに述べてきた、「歴史好き」の特性を活かして、自分は今後どうするべきか考えてみた。



①長所を伸ばす。


・過去の教訓を活かした問題解決や、組織運営など「歴史の観点」を交えて提案してみる。


・あるプロジェクトや企画提案なども、「歴史の観点」から点検してみる。



③短所を消す。


・過去に拘るのではなく、今まで経験したことの無いことに挑戦したりする。(未来への視点)


・ファッションにもこだわりを持つようにする。(現在の視点)




せっかく、歴史が好きなので、その長所は伸ばしつつ、ベクトルを現在、未来に伸ばすという感覚だろうか。。。



まずは、行動してみよう。



(完)

前回の続きである。



「歴史好き」についてつらつら考えているのだが、結論が出るわけではない。



しかし、自分自身が何者なのかを知るためには、必要なプロセスだと思っている。



日本人には、歴史好きの人が多い。


統計学的な数字はわからないが、歴史をテーマにしたイベントや、テレビ番組などの盛況ぶりを見ていれば、日本人の歴史への思い入れの強さを感じることができる。



歴史好きと言っても、その範囲や対象は、人によって大きく違う。


日本史、世界史だけでなく、古代史、戦国史、近代史という分け方もできる。


さらに、文化史、思想史、法制史、地方史などという分類もできる。



オールマイティーに、浅く広く好きな人もいれば、一つのテーマを深く掘り下げる人もいる。



いずれにしても、「過去」に視点を向ける「原点志向」を持っていると思われる。




これは、自分や、自分を取り巻く日本文化のルーツへの興味から湧き出るものかも知れない。


また、ナショナリズムの感覚とも微妙に結びついているのかも知れない。



(つづく)

なぜ、自分は歴史好きなのだろう。



最近、つらつらと考えている。




歴史好きで非難されたことは無いが、本当に歴史好きで良いのだろうか?



「過去を振りかえらず、未来を見据えろ!」とも言うではないか。。




歴史好きの長所、短所をあげてみると次のようなことが、思い当たる。


<長所>


・歴史の教訓を生かして、慎重に物事を判断できる。

・過去の事例を参考に、問題解決のヒントを見つけることができる。

・結局、人間のドラマが好き。


<短所>


・人類が経験したことの無いような新しい発想が出ない。

・過去にこだわるあまり、現代へのこだわり、たとえばファッションなどへの思い入れが少ない。

・特に古代史が好きな人は、「空想」好きであり、実学には程遠い。




なんとなく、「ヲタク」といわれる人達と少し重なる、違ったジャンルの人物像が思い当たる。



人付き合い下手の、インテリ頑固親父といったところだろうか。。



(つづく)


4歳の娘と市民プールに行ったときの話である。







娘が妻に「ピーターパンに乗ったら上手く泳げるよ!」と言った。



なんとメルヘンチックなことを言うと思っていたら、





それは、「ビート板」のことだった。。。





偉人伝シリーズ第三弾。





いままで、「偉人伝」として伊能忠敬、シュリーマンを紹介してきた。



この安藤百福氏も、私は同じカテゴリーに入る人だと思うのだ。





彼が48歳のときに、チキンラーメンを発明して「日清食品」という超優良企業を育てたことは有名である。




そのことばかりにスポットライトが当たるのだが、彼の前半生も立派なものだった。




伊能忠敬やシュリーマンと違うのは、太平洋戦争という荒波に翻弄されたという点である。






彼は台湾で生まれ、祖父が起こした繊維問屋を発展させて財を成す。




航空機や精密機械の部品製造まで事業を拡大していたが、終戦を迎えることになる。



戦前は、憲兵隊に睨まれ拷問を受け、戦後は、GHQに目を付けられ事業の再出発を余儀なくされる。





大阪で百貨店を経営することを足がかりに出直しを図るが、要請を受けて理事長に就任した信用組合が破綻して、財産の大半を失った。






戦争さえ無ければ、苦労する必要の無かった前半生と言えよう。







一からの出直しで、起死回生のホームランだったのが、『チキンラーメン』だ。




彼は、『チキンラーメン』を発明しなかったとしても、きっと違う事業でも偉業をなしていただろう。




でも、財産を失ったからこそ、つまり、本当に人々の求めるもの、社会貢献度の高いものに人生を賭けてまい進することが出来たのかもしれない。




つまり、前半生の経験によって、完全なビジョナリーな人になったと言えるのだろう。

私は「きゅうり」が好きである。







きゅうりは、「胡瓜」と書く。



なぜ、「胡(えびす)」なのだろう?







「えびす」というと、七福神の「えべっさん」を思い出す。



なぜ、「胡(えびす)」が神様になるのだろうか?







過去のブログにもアップしたが、「胡瓜」は揚子江流域で栽培されていたものが、日本に渡ってきたと私は考えている。

( 過去ブログ『カッパとEnglishman in New York』: http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11180318076.html?frm_src=thumb_module





揚子江流域の漁民は、よく潮に流され東シナ海を渡り、日本に漂流したそうだ。





生きて日本に帰化する人もいたが、死体として流れ着いた人達もいた。





流れ着いた死体を「胡」と言って祭ったことが、「えべっさん」の始まりだという説がある。





その「胡」が持っていた瓜のことを、胡瓜といったのかも知れない。





以前、伊能忠敬についてブログをアップした。




今回、伊能忠敬によく似ている人を偉人伝として取り上げたい。






その彼は、シュリーマンである。





彼は、考古学に熱い思いをたぎらせながら、事業家として財を築く。



その間、外国語を学習したり、マネジメントを体得したり、きたるべき大発掘に備えるのである。





そして、40代半ばになり、温めていた「トロヤ」の遺跡発掘に取り組むのである。






伊能忠敬とよく似た人生である。





しかし、少し違うところがある。



伊能忠敬は、隠居してから学問をするのであるが、初めから日本地図を作成したいという夢があったわけではない。





一方、シュリーマンは、遺跡発掘を夢見て、そのための準備を怠らなかった。




そういう意味では、シュリーマンのほうがより積極的な人生を送ったと言えるのかもしれない。




前回、日本も「越」も母系社会だったと述べた。




ということは、当たり前だが母系社会のシステムが、「越」から日本に伝えられたということになる。






「越」から日本にやってきた渡来人は2ルートに分かれる。




直接、東シナ海を渡った人たちと、朝鮮半島を経由して渡来した人たちだ。






このうち、朝鮮半島ルートの人たちにスポットを当ててみよう。




私は以前のブログで、亡命「越王室」は、百済と密接な関係を結びながら命脈を保ったと書いた。


(過去ブログ『銅鐸にまつわる日本建国の仮説』:http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11591445883.html )





そこには百済の檐魯(タムロ制という受け皿もあった。






しかし、よくよく考えてみると「越」は基本的には母系社会なのだ。




全くの私見だがひょっとすると、百済王室に、母系の血として入り込み命脈を保ったのかもしれない。




これは男系北方民族の百済王室にとってもWin-Winの関係になる。






百済王と越女王の間に生まれた王女に王族の誰かと結婚させ「越王(倭王)」としておき、百済王室と越王

室の共存を果たした。



その後、檐魯(タムロ制により王族がたらい回しににあい、血がシャッフルされたが、その間も「越王(倭王)」は存在し、越王に仕える越人たちは百済国内に温存され文化を継承して行った。





有り得ないことは無いかもしれない。




(完)



前回の続きである。





「若衆」には、村の自治以外にも重要な機能があった。




夜這いの風習である。





夜這いの風習は、日本以外では越人地域や南方系民族に広く残っている。





男になるため、先輩達からいろいろ指導もあったのだろう。





しかし、それだけではなく日本は基本的に母系社会であった。



そして夜這いは、その社会システムを維持するために重要な機能だったのだ。




「源氏物語」などを読んでみるとその事実はあきらかである。






過去のブログにもアップしたが、歌垣(うたがき)なんかもその代表例だ。





(過去ブログ『歌垣と村八分といじめによる自殺』 http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11320862312.html


(つづく)




日本人のルーツを探ると、中国戦国時代の「越」との関係が、深いことがますます分ってくる。







「械闘」という言葉がある。




村が武装して自治をまもるという、中国福建省の越人地域に残る風習である。





日本にも、「若衆」という風習があり、青年団のような組織であるが、村の自治を担当した。




近年まで鹿児島に残っていた風習だが、昔は日本全国の字(あざ)ごとに存在した。




西郷隆盛も大久保利通も、この「若衆」の風習に鍛え育てられ、明治維新を遂行する。






この「若衆」も、さかのぼっていけば、弥生時代の環濠集落に行き着くのだろう。





そして、それは呉・越の人たちがもたらした風習だった。。。




(つづく)