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かんとれ!

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人間の体は、今日と昨日では違っている。





細胞が入れ替わっているからだ。


骨ですら、7年ですべて違う細胞に換わってしまう。







しかし、「自分という」個性は、そう簡単には変化しない。




1年後であり、3年後であれ、7年後であっても、




大体の知人は、私を認識してくれる。






これは、遺伝子によるものだろう。





今、新しく私の中で生まれてくる細胞も、



死に行く細胞も、同じ遺伝子を持つ。







また、体のすべての細胞が同じ遺伝子をそれぞれ持っている。




同じ遺伝子を持つ細胞同士が、役割を分担し合って、




私と言う人間を形成している。




生まれてくる細胞は、死に行く細胞から役割をバトンタッチして、




私という人間を支えている。


(つづく)





「タジマモリ」をご存知だろうか。





漢字では正しくは「遅麻毛理」「田道間守」と書く。

しかし彼が中・近世の人なら「但馬守」と書くのだろう。




丹波(但馬)地方にいた古代の役人で、垂仁天皇に使えた。






先祖は、日本の但馬地方に滞在した新羅の王子、




天之日矛(あめのひぼこ)だという説がある。



新羅系の渡来人だということだろう。







彼は、垂仁天皇の命を受けて、



非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を常世の国に取りにいく。






ようするに、果物を外国に取りに行ったということだ。






彼は10年かけて、実つきの枝を持ち帰ったが、




垂仁天皇は他界しており、それを陵にささげた。




たった、これだけの話だが、日本古代の忠臣話として取り扱われている。





ちなみに、彼が持ち帰ったのは「橘」。



原種の「みかん」だ。





それ以来、彼は「お菓子」の神様として崇められている。






佐賀県伊万里市にある伊万里神社に彼は祭られている。




彼が日本に上陸したのがこの地だったからと言う。






また、卑弥呼が魏に使者として派遣した大夫である、




難升米(なしめ)は、タジマモリのことだという説がある。






いずれにせよ、極めて実在した可能性が高い人物なのだ。







本人の存在自体はぼやけてしまっているが、



忠臣ストーリーは、現代まで伝わっているのである。







やはり人間は、なにかを成すことが重要なのだ。




「おとうさんなんか、いなければいいのに!」





4歳の娘が言った。






最近、嫌気がさしてきたソロバンの宿題を



無理やりさせようとしたときに言われた。







娘は、泣きながら、床を蹴りながら、



「おとうさんなんか、いなければいいのに!」


と、全身で感情をぶつけてきた。






好きでないことをさせるのは、私の本意でもない。







しかし、十級まで頑張って取った娘に、


一時的な嫌気から、やめさせるというのは早すぎる。







妻と相談の上、もう少し様子を見ることにしたのだ。






子供達に対して甘い妻のフォローは、私の役目だと心得、



子供達に、社会性を厳しくしつけて来たつもりだ。






損な役回りとは知りつつ、娘のこの言葉は心に痛かった。







マネージャーの役割は、家族も、組織もおなじだなあ。



東京でオリンピックが開催されることが決定した。


成功要因として招致活動した関係者の


「チームワーク」が取りざたされている。



トルコやスペインの関係者も


それぞれ一団となってがんばったことだろう。



しかし、日本の場合は「チームワーク」が


美談として取り上げられることが多い。



「和」=「輪」=「倭」


である日本にとって、


聖徳太子の憲法十七条の一条である


「和をもって尊しとなす」という精神は、


現代のわれわれにも脈々と流れているのだろう。



クマモンのキャラクターをあちこちで見かける。



熊本県も、大もうけしていると思ったら、


なんと、キャラクター使用料は取っていないのだそうだ。



一応、キャラクターを使用することは、


熊本県の審査を受けた上での、許可制にはなっている。



熊本県のPRにつながれば、大体使用許可が出ていて、


企業にとても大変なチャンスだ。



一方、熊本県にとっても、メリットがある。


キャラクター使用料を放棄しても、


いろんな媒体に露出するため、熊本県のPRにつながる。



よく考えられたシステムだ。



そうやって、クマモンを見ると、


ほくそ笑んでるように見えるのは私だけだろうか?




前回紹介した本の中に、




・「データも方便」:自分の意見に賛同してくれるよう、他人をたぶらかして導く手段。



という記載があったと述べた。







自分の主義主張にあわせて、データはいくらでも工夫できるということである。




実際、世の中にはそんなデータがいっぱいある。




だからこそ、データに惑わされず、間違いに気付いた人が、「つっこみ」を入れる必要があるのだ。






また、その現実を直視すれば、「正しいこと」を振りかざすのは空しいことだとわかる。



だから、つっこむ方もただ単に指摘や批判をするだけでなく、「笑い」で相手の逃げ道を準備してやる。









完璧で清く正しく愛もあるひとに、人望が無いということがよくある。



「正しいこと」を追い求めすぎると、かえって間違った方向に行ってしまうのだろう。







「正しいこと」を振りかざすのは空しいと、心得た上で、「笑い」や「ユーモア」の重要性に気付く必要がある。



それを、人は「余裕のある大人」と呼ぶのかもしれない。





人望のある人やリーダーは、意識的か無意識かは別にせよ、この点をシッカリと押えているのだろう。





最近、次の本を読んだ。





つっこみ力 (ちくま新書 645)/筑摩書房
¥735
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この本は、参加している読書会で取り上げられた課題図書だった。





お笑いの「ボケ」と「ツッコミ」のうち、「ツッコミ」に焦点を当てているが、その意図するところは深い。





「つっこみ力」とは、「わかりやすくする力」だと著者は言っている。





正論や知識、理屈に対して、批判や指摘を入れるのだが、そこには場を盛り上げようとするサービス精神や自己犠牲の精神がある。


更に、笑いを誘うことで相手を追い込んでしまわない愛や、スベッて自分が批判されるかも知れない覚悟を持つ勇気まで兼ね備えている。




人は、こういう行動に対して結果的に笑うのである。







また著者は次のようなことも言っている。




・論理の正しさばかりを追い求める人は、既存の価値の枠組みから一歩も外に踏み出すことが出来ない。その上、周囲の人から、「あの人、いつも正論ばっかり言ってつまんない。」という烙印を押されてしまう。



・独裁者は社会や人間のいい加減さをゆるせない完ぺき主義で心の狭い人。




・民主国家とは正しい国のことではなく、おもしろい国のこと。



・「データも方便」:自分の意見に賛同してくれるよう、他人をたぶらかして導く手段。







これらのポイントを列挙するだけで、著者の言う「つっこみ力」とは、意味が深いことがわかるだろう。




それは、「権力」や「権威」、「正論ばかりいう人達」に対して、

「①愛②勇気③笑い」をもって立ち向かうことで、

世の中を間違った方向に導かないための手段になる力だと言えるのかも知れない。


前回の続きである。




植物のケースを見てきたが、人間の寿命はどうやって決まるのだろうか?




これも、環境対応であることには違いないだろう。




太古の昔の人間の寿命は、3~40年だったといわれている。




であれば、本来の環境適応寿命はそれくらいなのだろう。




それが、80年以上生きながらえることが出来るようになった。






寿命が伸びた人類には、別の環境適応のための条件が揃ってきたというべきだろうか?




寿命が倍に伸びて、生きる意味が半分に薄まったわけではないだろう。




ならば、単に生きるのではなく、どう生きるかと言うことが重要になってくる。




本人にとって意味のある生き方であれば、その内容がどうであれ、意味のある「生」ということになろう。





一番もったいないのは、せっかく伸びた寿命を浪費して、薄まった人生を送ってしまうことだ。





人生の長短は人によっても異なるが、昆虫や草花のように咲き誇って生きてみたいものである。




(完)


前回の続きである。





我々人間の寿命はなぜ80年ほどなのだろうか?




歴史的に見て生活環境が整い、寿命が延びてきた背景はあるが、それでも犬やネコなどに比べると長い一生を過ごす。







少し視点を変えて、植物のケースを見てみよう。




草花は、概ね一年しか生きながらえない。




一方、樹木は数千年生きるケースもある。




この違いはどうして起きるのだろうか?




遺伝子のせいだと言えばそれまでだ。



しかし、同じ植物になぜ、そんな極端な運命が待っているのだろう。







その答えは「神のみぞ知る」であるが、客観的に見て環境には順応しているように見える。




背の低い草花が、空高く育つ樹木と競争して、勝てるわけが無い。




短い一生と引き換えに、育つ環境をリセットして、あちこちに広がることで「種(しゅ)」の存続を図っているといえる。






企業などの組織にも同じようなことが当てはまるだろう。




基幹産業を押える老舗の巨大企業と、フランチャイズ展開を図る新興企業との対比に似ている。



流行の移り変わりの激しい分野に、素早く事業を浸透させるためにフランチャイズ展開を図って参入するが、しばらくすると流行の変化に対応して、その事業をスクラップアンドビルド(改廃)したりする。




さながら、草花の環境対応そのものではないだろうか。




(つづく)



我々人間の一生は永遠ではない。 





必ず終わり、すなわち「死」が訪れる。




しかし、大病を患ったりしていない限り、「死」を意識することは少ない。







人間には、80年近い生命にとっては比較的長い寿命が与えられているからなのかも知れない。






草花のように、人間の一生が一年ほどしかなければ、死に対してどう感じるのだろう?







昆虫だって、大半が一年弱ほどしか生きながらえない。




それでも草花や昆虫達は、その短い一生を謳歌しているように見える。





働きアリや働きバチは一生懸命働くし、草花は咲き誇る。



彼らは一生懸命生きているのだろう。







我々人間も常々もっと死期を悟るようにすると、一生懸命生きるのだろうか?




(つづく)