かんとれ! -4ページ目

かんとれ!

考えるトレーニング。
ビジネス脳を鍛
える!書評よ
りも、得た情
報についてさ
らに考えるこ
とにより、
自分のモノと
して消化する
プロセスこそ大切。
キーワード応用、朝礼、
多読・速読、
仮説と検証、
中小企業診断士、
経営分析ツール

土井ヶ浜に住み着いた弥生人は、中国の山東省の出身者だったが、


特権階級の人たちではなかったと、思われる。






では、彼らの身に着けていたゴホウラ貝が、


粗末なものだったかというと、そうではない。




沖縄でしか取れない、当時は貴重なものだったのだ。





このゴホウラ貝は、縄文時代から日本に流通しており、


北は、北海道まで交易されていた。



北海道の遺跡でも、土地の有力者と思われる人々の


副葬品として、このゴホウラ貝が、出土している。





土井ヶ浜の人たちは、既存の縄文人の交易ルートを利用して、


高価な、装飾品を手に入れていたことになる。




イギリスの貧民が、アメリカに渡り富を得たという、


アメリカンドリームの逸話に似ていないだろうか。





当時のジャパンドリームだったのだろう。



土井ヶ浜遺跡を訪問して、気がついたことがある。





この土地の支配階級と思える人に、


ゴホウラ貝の腕輪がはめられたまま、埋葬されていたのだ。





これは、良く考えると、ある事実を伝えている。




この時代は、中国では戦国時代であったため、


ある程度、文明が発達していた。




もし、中国から逃れてきた彼らが、特権階級の出身であれば、


金銀などの宝飾品を持っていただろう。




しかし、実際には貝の装飾品を身に着けていた。





つまり、中国では特権階級ではなかった人たちが、土井ヶ浜に


住み着いたということになるだろう。



念願かなって、土井ヶ浜遺跡(弥生パーク)に行ってきた。





かんとれ!




前々から一度は行ってみたかった、遺跡であったが、


幸いにも、近所に仕事での出張があったため、立ち寄ることができた。




ここに展示されているのは、すべてレプリカであるが、


想像していたことと、自分のイメージとのズレを調整することができた。




この遺跡の特徴は、人骨がすべて北西を向いて埋葬されていることである。




また、偶然にも遺体が見つめている延長線上にある、中国の山東省・淄から、


同じ人体的特徴を持つ、同時代の人骨が発見された。




ここに入植してきた人たちは、故郷の方向を向いて埋葬されたのだろう。




しかも、その風習は約400年もの間、子孫に伝えられた。



私の部下が増えた。





彼は、モンゴル族である。




しかし、中国国籍を持っている。




つまり、中国・内モンゴル自治区出身なのだ。




日本語はペラペラで、5ヶ国語が堪能。




当社の期待の星である。






ところが、私は彼に一度も会っていない。




もう既に働いてもらっているのだが、


私のいる福岡ではなく、


九州の他の地方都市の営業所配属になっているからだ。






どんな人間なんか会ってみて、色々話をしたい。




今のところタイミングが合わず、実現していないが、




会うのが楽しみである。



前回、「人は変わる」という内容を述べた。




今回は、逆説的に「『書いたモノ』は変わらない」


ということを、考えてみた。



「書いたモノ」が変わらないのは、当たり前だ。




例えば、書籍を出版して世に認知されてしまったら、



その考え方や、内容はずっと保存されるだろう。




そして、出版されてから数年経って、その本を読んで感動して、


著者に、「感動した!」とメッセージを送っても、


当の著者の方は、その時の人とは別人になっており、


「ほー、そうか。」くらいの反応なんだろう。






何を隠そう、この私も、出版後数年たった本を読んで感動し、



その著者に、「感動した!」というメッセージを送ったことがある。




当時は、その返事が無かったことを、残念に思っていたが、



しごく、当たり前の反応だったと、今ならわかる。




私は、過去に債権回収に携わったことがある。



といっても、特約店の破綻にともなった、


自社の売掛金確保という狭い範囲のものだ。



しかし、当時は自分なりに熱くなって、


主体的に社内の各部門を動かした。



そして、その活動を記録して、レポートにまとめていたのだ。



今後、同じようなケースが発生したときに、


参考資料として使ってもらうよう、本社に提出しておいた。




最近、自社のグループ会社含めた、


全く接点のなかった他部門のメンバーから、


債権回収についての質問を、よく受けるようになった。



彼らは、私のレポートを見ながら、


師匠を仰ぐように、細部について色々質問してくる。




しかし、当の本人は細かいことなどすっかり忘れてしまっており、


彼らを幻滅させるだけだった。



そんなことが、何回かあったため、


自分の書いたレポートを久々に読み返してみた。



自分ではない、別人が書いたのではないか


と思えるくらい新鮮に読めた。



そうなのだ。




今の自分は、あの時の自分とは、違うのだ。





進歩しているのか、後退しているのかは、わからない。




ただ、違うことだけは事実だ!


前回のつづきである。





前回、人間の行き過ぎた「競争」、について「宇宙の真理」との矛盾をとりあげた。






ここで、少し視点を変えてみると、私が過去にアップした、「机上の空論」という


理論が、この問題を深く考えるのに、使えないだろうか?



( 過去ブログ『「机上の空論」を深く考える』: http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11627368758.html )





今一度、「ビジネス思考」と、「アカデミックなアプローチ」との違いを考えてみよう。




「ビジネス思考」は、ベストではなく、ベターな答えを求め、「競争」があるがゆえにスピードが要求される。





一方、「アカデミックなアプローチ」とは、「机上の空論」とも言い換えられるが、

ノーベル賞受賞・物理学者達による、100年にもおよぶ本当の真実への数式のアプローチなど、


ベターではなく、ベストを追い求める。






人間は、「競争」の本能があるがゆえに、ベストではなく、ベターなものを手っ取り早く手に入れ、


更なるベターなものを、スピード感をもって手に入れようとする。




ベターなものとは、「真実」ではない。



ベターを繰り返すと、真実に近づくが、やはり真実ではなく、ベストでもない。






これを人類の歴史に置き換えると、同じようなことがいえるかもしれない。





戦争ばかりしていた人類は、よりベターな社会を求めて、

その競争の本能を、ビジネスフィールドに持ち込み、「命を賭けた戦い」を減らしていった。





しかし、これは「ベター」な解であって、まだまだ「ベスト」ではないのだろう。






(完)



前回のつづきである。





人間は、なぜ、競争したり頑張ったりするのだろうか?






少し視点を変えて歴史を見てみると、「戦争」つづきであったことがわかる。







「戦争」も、一種の競争だ。「生存競争」と言えるかもしれない。




人間には、「競争」するというプログラムがインストールされていると、


考えたほうが、素直に理解できる。






現代社会でも、「戦争」はなくなっていないが、それでも、人口爆発が続く中で、


一昔前よりは戦争勃発の確立は低くなってきている。




兵器の進歩により、抑止力が働いているという意見もあるが、


我々にとっての主戦場が、ビジネスのフィールドに移っているという見方もできる。






つまり、経済社会で人間は「競争」するという欲求を満たしているのだろう。









しかし、「競争」するという欲求の強弱には、個人差がある。




そして、「競争」ということは、「敗者」が必ず存在するわけである。





その「敗者」は、現代では命までとられることは少なくなったが、

生活苦は負わされることになる。







これは、宇宙の真理から見て、正しい姿なのだろうか?




これが正しい姿なら、「人間」とは、進化の過程で横道に反れた亜種であり、


いずれ滅びる運命にある、ということにならないだろうか?




(つづく)



私達は、なぜ日々頑張っているのだろう。







仕事に、勉強に自分の目指す目標や、課題に個人差こそあれ、



頑張って挑戦している。







なぜ、頑張るのだろう。






一つは、目標を達成して成功したい、という理由があるだろう。





また、ただ単に、達成感を味わいたい、という理由もあるかもしれない。






みんなが、宇宙の真理に触れながら、平和に暮らすことこそが、



幸せだと分っていても、「頑張る」ことは、やめないだろう。






それは、理想を掲げた共産国家が崩壊していったことからも、容易に推測できる。







つまり、人間は「競争」とか「頑張る」ことから逃れられない生き物であるのだろう。




これも、人間に与えられた使命、宇宙の真理なのであろう。







(つづく)



前回のつづきである。





そもそも、「ビジネス思考」と、「アカデミック」なアプローチの違いとは何だろうか?






私は、「時間」なのだと思う。







「アカデミック」なアプローチでは、真実を見つけるために、



100年という歳月を費やしても許される。







一方、ビジネスでは、スピード勝負だ。




真実でなくても、ベターな考え方であれば、




ドンドン実践して利益を出していく。






と言うことであれば、「ビジネス思考」とは、




「真実ではないけれど、ベターを追い求める考え方」といえる。






よって、世の中を「ビジネス思考」だけで、捉えてしまうと、




間違った方向に向かってしまう可能性を示唆していないだろうか。






世の中を、決定的に間違った方向に向かわせないためにも、




アカデミックな机上の空論は、確実に必要であるということが言える。




(完)