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かんとれ!

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前回の続きである。





山門(ヤマト)での開墾の成功のうわさは、



博多湾岸の集落にすむ縄文系土着民の人々の耳にも入った。







そして、その成功を目の当たりにして、教えを請おうということになった。






縄文系土着民である彼らの文化ルーツは、色々有るが、根幹となるのは、




マンモスハンターとしての文化だ。


(過去ブログ『「死穢」(しえ)と「和」』: http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11505666132.html





マンモスハンターはチームプレイを強要される。






そして、それは現代でも「和」の思想として、深く日本人に根ざしているのだ。






博多湾岸の、縄文系土着民たちも、ゆるやかに連携していたのである。





彼らを仲間に入れるかどうするか、様子見もかねて、



稲作の方法の教えを請うことにしたのである。







とにもかくにも、縄文系土着民たちは、ヤマトの民に接触してきた。






そして、徐々に交流を深め、ヤマトの民は隣人として認められるようになっていく。







(つづく)



前回の続きである。







一旦、能古島に戻った彼らは、糸島に近づいて様子を見つつ、



比較的炊煙の少なかった、目の前の対岸に上陸することにした。







そこは、現在の福岡市西区山門(ヤマト)地区だ。






稲作をしようとしたが、適した湿地はすべて、




縄文系土着民がすでに古代米を栽培していた。






この山門地区には雑草は生えていたが、湿地は少なく、




木々も少なかったため、縄文人は定住していなかった。






彼らは、自らの手で開墾することを決める。





ちょうど、水田に水を引くのに適した小川である「十郎川」が



この土地の中央に流れていた。








そして、時が流れて10年後。




あたり一面にたわわに実った稲が頭を垂れていた。





(つづく)



前回の続きである。





       +       +       +       +




朝鮮半島から、数隻の小船の船団が離岸した。





船には7~8家族くらい、30人くらいは乗っているだろうか。




船央部には、大きな甕に種籾が満載して積んであった。








彼らは途中、対馬や壱岐など同じ言葉を話す同朋たちが住む島に立ち寄り、



日本に住むなら何処が良いか情報を収集した。







そして、博多湾を目指すことにしたのだ。







博多湾に着くと、まずは様子見のために、能古島に接岸した。





あちこちから、炊煙が上がっているのが見え、人口が多いことが分った。






おそるおそる近づいてみると、目の大きな縄文系土着民が、大勢すんでいた。





ここは、現在の地名で言うと「福岡市東区貝塚」だ。




遠浅の浜辺で、貝がたくさん取れるためか、貝殻が山のように積上げられている。






また、彼らは湿地を利用して、稲作までしている。





「我々の住む場所はもう無いではないか!」と、彼らは嘆いた。





(つづく)



前回のつづきである。







弥生時代の渡来人たちの大半は、アングロサクソン系移民団のように、



家族でやってきた。







なぜ、それがいえるかと言うと、大陸から渡海するときに、



種籾を携えてきたからである。







もし、スペイン系移民団のような男達だけのギャング団だったとしたら、



そんなものは持って来ない。





縄文人たちから奪えばよい。






では何故、アングロサクソン系移民団のように




縄文人たちを駆逐しなかったのだろうか?






ここで少し、具体的に想像してみよう。







(つづく)



前回のつづきである。





弥生文化と縄文文化が、弥生時代を通して急速に進んでいった。




しかし、そもそも何で、混血が進んでいったのだろう?




過去のブログにアップしたが、植民地征服の例として参考になるのが、


インディアンの征服と、インディオの征服だ。


(過去ブログ『インディアンとインディオ』:http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11491265339.html



前者は殺戮され、後者は今でも人口の多数を占める。




盗賊まがいのスペイン系移民団は、男性のみで乗り込み、



インディオの男は殺したが、女は妻とした。




そして結果的にインディオは、命脈を保つのである。







一方、家族ぐるみで移民したアングロサクソン系移民団は、



インディアン達を、邪魔な異教徒として、殺戮し、




和することなく追いやっていった。






弥生時代にも、スペイン系のようなギャング団が




日本にやってきたのだろうか?




(つづく)






私は以前、弥生時代の「王殺し」についてブログにアップした。



(過去ブログ『縄文民主主義』: http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11343145366.html






これは、縄文文化と弥生文化がミックスされていく過程でできた文化だ。





つまり、弥生時代では、我々が思っていたほど渡来人優勢だった訳ではなく、



土着日本人(縄文人)の勢力も、かなり強かったことがわかる。







記紀にも、「土蜘蛛(つちぐも)」といわれる土着勢力が登場し、



神武天皇の東征をささえるシーンが出てくる。







古墳時代には完成したという、現代日本人の骨格が、



縄文系と渡来人系のどちらの特徴も併せ持つことからも、




文化および、血の交流はさかんに行われたに違いない。






(つづく)


土井ヶ浜遺跡について、色々と述べてきた。





今回は、それを総括してみたい。






土井ヶ浜遺跡の人々は、もともとは、中国の山東省に住んでいた。





当時の中国は、戦国時代であり、この地区は戦国七雄に数えられる


「斉」の国の一部であった。





ひょっとすると、彼らは、それ以前に滅ぼされた、揚子江流域の国家である、


「呉」や「越」の亡命者達だったのかもしれない。







とにかく彼らは、戦乱の世の中で搾取され、生命の危険を感じていた。






そして、仲間と一緒に渡海し、「蓬莱」といわれた夢の島:「日本」を目指した。






ところが厳しい航海を乗り越えて博多に着くと、


そこはすでに人口爆発期を迎えつつある大都会であり、


彼らの住む場所すらなかった。






仕方なく、船で東に向かうと、少しずつ人口が減っていくのが分った。







最終的に土井ヶ浜に降りたち、ここに入植することに決めるのである。






やがて、稲作もなんとか軌道に乗り、そこそこの富を蓄積することもできた。







しかし、「富」が発生すると、「争い」も起こる。




平和を愛する彼らの土地を狙おうと、近隣から攻撃を受けることになった。




当時、リーダーだった「英雄」は、みんなを守ろうと、果敢に戦うも、惨殺された。






土井ヶ浜遺跡の人たちは、「戦争」を避けて日本にまで来たのに、


また、戦争に巻き込まれることになったのだ。






しかも、今度は自分達の土地を、自分達が主体になって、守らなければならない。







望郷の念がつのったのだろう。




せめてもの慰めに、入植一世達は、故郷の方角を向いて埋葬された。







そしてその望郷の念は、風習となって10世代以上、400年近く守られてきた。






しかし、400年後、彼らの子孫は、この場所を離れることを決意した。







そこに何があったのか、彼らが何処に行ったのかは、誰も知らない。





倭国内乱により、都市国家間の戦争が激しくなるにつれて、


「戦争を避ける」というDNAが、彼らを突き動かして、


戦争の少ない、日本の内陸や北方に逃れていったのかも知れない。







そして、300体もの遺骨が発見された土井ヶ浜の土地は、


かつての静寂を取り戻すのである。


土井ヶ浜遺跡の人たちは、故郷である山東省・淄の方角を向いて埋葬されている。





これは、この遺跡に埋葬されていた人たちが、


故郷に対して望郷の念を持っていたことになる。





しかも、それを約400年もの間、子孫に伝えていったのである。




入植者達の深い望郷の念が、10世代くらい続けて守られてきたといえる。




つまり、彼らは中国の文化を色濃く保ってきたという可能性が高いのである。






「王殺し」については、過去のブログで自説を述べたことがあるが、



この風習は、「縄文文化」と「大陸文化」の融合の末、


生まれた「弥生文化」独特の文化なのだ。





もっとも、この「王殺し」に繋がる「抜歯」の風習を取り入れていたことが、


分っているため、可能性は完全には否定できない。





しかし、中国の文化を引きずっていた、土井ヶ浜遺跡の人たちが、


「王殺し」をしたとは、あまり考えにくい。







であれば、やはり「英雄」という名のとおり、


近隣との戦争で、勇敢に戦い、戦死したのではないだろうか?




(完)

土井ヶ浜遺跡には、「英雄」と呼ばれる人が埋葬されている。





彼は無数の矢を射られて、頭蓋骨が砕かれた状態で埋葬されていた。




また、彼の腕にはゴホウラ貝がはめられている。







この土地のリーダー格の一人だった彼は、


なぜ、こんなに無残な殺され方をしたのだろう。





裏切り者だったのだろうか?




いや、それであれば、ゴホウラ貝の腕輪をしたまま、


埋葬されることはなかっただろう。




しかも、仲間と同じ場所に埋葬されることも無かったに違いない。







資料館では、理由はよくわからないとしつつ、


①儀式的なものであった可能性と、


②敵と勇敢に戦った「英雄」である


とする2つの可能性を示唆している。





「英雄」という命名から、②の可能性のほうが強いとしているのだろう。






私は、過去のブログで「王殺し」についてアップしたことがある。



(過去ブログ『縄文民主主義』: http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11343145366.html



当時の王は、リーダーとしての霊力が落ちると、

無残な殺され方をしたという。







ということは、①の可能性も捨てられないということか?




(つづく)







土井ヶ浜遺跡の人たちは、最初から土井ヶ浜を目指したのだろうか?




最初は、やはり肥沃な平野が広がる福岡・博多を目指したのではないだろうか?




しかし、そこは当時の日本最大の大都市となっていた。





当然、後から来た彼らに入植するスペースも無く、


土地を求めて、東に向かったのだろう。




これは、戦後、東京や大阪の大都市に人口が集中しつつあった時代、


当時は田んぼの広がる、大井町や高槻市などが、ベットタウン化し、


大都市に吸収されていった様に似ている。





当時、戦国時代であった中国での戦乱を逃れて、


日本に亡命してきた土井ヶ浜の人々は、


福岡・博多などの人口密集地での更なる争いを避け、


ようやくここに、落ち着くことになった。






都心では地価の高さに手が出ず、郊外に住居を買う我々は、


2000年前から、同じ悩みを抱えてきたことになろう。