平成から令和へ:象徴天皇制を考える | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 4月30日、今上天皇が退位されて、5月1日には新天皇が即位する。2月24日、在位30年記念式典に当たって、天皇陛下は、次のように述べられている。

<天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています>。

 日本国憲法の第一章は「天皇」であり、第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と記されている

 憲法改正議論の中で、「象徴」を「元首」に変えるべきだという意見が根強くあるが、私は反対である。平成5年には、天皇陛下は次のように述べられている。 <長い歴史を通じて政治から離れた立場において、苦しみあるいは喜びに国民と心を一つにして、国民の福祉と幸福を念ずるというのが日本の伝統的天皇の姿でした>。

 このお言葉で重要なのは、象徴天皇制こそが日本の歴史だということである。現実の政治権力とは離れたところで権威として存在してきたのが天皇である。これこそが、天皇が述べられたように、「日本の伝統的天皇の姿」なのである。

 その意味で、明治維新から1945年の敗戦までは、天皇制のあり方としては、例外的な状況だった。戦後の日本は、長い日本史の伝統に回帰したと言ってもよいのである。

 このように考えてくると、「元首」は適切ではなく、「象徴」のほうが天皇のあり方として相応しいと思う。

 アメリカやフランスや韓国などの大統領は国家元首であるが、選挙で選ばれれば、誰でもなることができる。しかし、日本の天皇は違う。まさに、普通の人ではなれない存在であり、元首ごときにするには畏れ多いのである。

 また、国家元首となれば、政治的意味合いもでてくるかもしれず、それは「権力を持たないからこそ権威を持つ」日本歴史における天皇の在り方とは異なる。

 2012年に発表された自民党の第二次憲法改正草案では、「天皇は、日本国の元首であり」と記している。私は、この案には反対である。