舛添要一のヒトラー入門(20):§1.ヒトラーとの出会い②海外留学へ・・⑮ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 第一次大戦後に、ドイツに対する安全保障として、フランスどのような政策をとったのであろうか。

 まず、ヴェルサイユ講和会議において、①ドイツの西方国境をライン川とすること、②ラインラントを分離して国際連盟の保護下に独立国を形成すること、③ライン左岸及び橋頭堡を連合国軍隊が占領することを要求した。

 つまり、自然国境ラインを独仏国境とすることがフランスの安全に不可欠であると考えられたのである。

 しかし、このフランスの要求は、ウィルソン米大統領とロイド・ジョージ英首相の反対に遭遇する。英米は、ラインに関するフランスの要求を退ける代償として、ドイツに対する安全保障協定をフランスと結び、ドイツがフランスを侵略した場合に直ちに援助に駆けつけることを提案した。

 フランスは、この協定を受託する。その結果、ライン左岸及び50㎞以内の右岸の非武装、15年間にわたるライン左岸の軍事占領が講和条約によって決定されたのである。

 しかしながら、ライン左岸の占領は、フランスが狙ったような安全の保障では無く、ヴェルサイユ条約履行の保障として位置づけられたのであった。

 しかも、15年間という占領期間は、ドイツが賠償を支払うべき期間よりも短く、条約履行の担保としての機能すら十分に満たしえないものであった。ポアンカレ首相によれば、まことに「15年間という数字は勝手気ままなもの」であった。

 さらには、英仏援助協定は、1919年7月3日にイギリス議会によって批准されたものの、1920年3月20日にアメリカ上院が米仏援助協定の批准を拒否したため、英米による対仏保障協定は流産に終わってしまった。なぜなら、この二協定は、それぞれ他の協定の批准を発効条件としていたからである。

 こうして、フランスは対独安全保障の最も重要な一要素を失ったのである。その意味で、実際にヴェルサイユ条約は「フランスの安全を保障しない」(フォッシュ元帥)ものであった。