舛添要一のヒトラー入門(8):§1.ヒトラーとの出会い②海外留学へ・・❸ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 パリ大学の世界的な教授は、ジャン-バティスト・デュロゼル(Jean-Baptiste Duroselle )先生であり、フランス現代史、国際関係史などの著作で有名であった。日本の若い学生からの依頼など無視されると思っていたが、すぐに返事の手紙が来て、指導を引き受けるからパリ大学に来るようにと記してあった。

 当時は今のようなインターネットもないし、フランスは手紙の国である。辞書を参考に苦労して手紙を書いたことを覚えている。とくに敬語の使い方など難しい。個人の場合、ペンで手書きにするのが普通で、タイプライターで書いた手紙は礼を失するような感じであった。

 とまれ、フランス語の自信はないし、海外留学の資金もない。嬉しい申し出であったが、実際は途方にくれてしまった。文部省の海外研究資金は定年間際の大教授にしか配分されない。そこで、フランス政府給付留学生(boursier)の試験を受けて合格するしか手がなかった。

 フランス語は読めるが会話は全く駄目で、市ヶ谷の日仏学院に通い、フランス人の先生たちから猛特訓を受けた。留学生試験は難しかったが、なんとか合格した。

 しかし、助手として勤務していた東大法学部は、私の留学を容易には認めなかった。私の留学を議論する教授会で、ある教授は、文部省の海外研究資金を待っている身だったが、「私がまだ行っていないフランスに、若い助手の分際で行くなどもってのほかだ。そんな奴はクビだ」と激高したという。

 ところが、日頃は無口なフランス法の山口敏夫教授が立ち上がった。山口先生は、私が留学する予定のパリ大学法学部で1961年に法学博士号を取得しており、この発言に我慢ができなかったようである。「私は若い頃にフランスで勉強して、こうしてフランス法の専門家になった。舛添君が、フランスの歴史を学ぶのにパリに行くのは当然だ」と反論した。

 こうして、クビ(解雇)と留学(助手ポストの継続)の間をとって、「休職処分」ということになった。これは、犯罪などで処分されるのと同じで、私は、東大総長に始末書を書かされたのである。

 これが当時の東大であり、定年間際の教授に「ご褒美」として海外旅行をプレゼントする文部省の体質であった。45年前の話であるが、私はこれでは日本の学問は駄目になると思ったものである。

 因みに、その後、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカなどで研究をしたが、私は留学資金をすべて海外から調達した。それは、文部省に対する憤りからかもしれない。

 こうして、1973年6月、私が24歳のときに、羽田空港(当時はまだ成田空港はない)からフランスへ飛び立った。