舛添要一のヒトラー入門(7):§1.ヒトラーとの出会い②海外留学へ・・❷ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 東大法学部のヨーロッパ政治史の指導教官である篠原先生は、シュトレーゼマン外交の専門家であり、ワイマール共和国やヒトラーに関する多くの文献をテキストとして採用した。

 とくに記憶に残っているのが、Karl Dietrich Bracher,”Die deutsche Diktatur —Entstehunng, Struktur,Folgen des Nationalsozialismus“(1969年)という580ページに及ぶドイツ語の大著を読んだことである。日本語訳は、1975年に『ドイツの独裁—ナチズムの生成・構造・帰結』(Ⅰ、Ⅱ)(山口定、高橋進訳、岩波書店)というタイトルで出版されたが、当時はドイツ語で苦労しながら取り組んだものである。

 今でも、そのドイツ語のテキストが残っており、行間の書き込みなどを懐かしく眺めながら、いまこの文章を書いている。その他、日本語、外国語を問わず、ヒトラー、ナチズム、ワイマール共和国について文献や資料を調べていった。

 ナチズム、ファシズム、スターリニズムなどの全体主義独裁については、駒場のキャンパスでも、岩永健吉郎先生や佐藤誠三郎先生の政治学の授業や演習で多くの示唆を受け、また数多くの本を読んだ。

 とくに「現代の独裁」という観点からの政治学的分析には魅了されたものである。

 高校生のときにジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」を観て感動し、ヒトラーのことをもっと研究したいと思ったが、東大に入学してから、それを実行に移していったのである。

 岩永先生には、ナチスの御用学者と言われるカール・シュミット(Carl Schmitt)についても教わった。「政治とは友・敵関係である」、「決断」などの概念について学んだものである。

 さて、本郷で東大法学部の助手として3年間の予定で助教授就職論文を書くための研究生活を始めたが、篠原先生の専門であるドイツの隣の国、フランスを選ぶことにした。それは、ワイマール共和国からヒトラーが誕生するのを阻止できなかった責任はイギリスやフランスにもあり、とくにフランスは陸続きの隣国であったからである。当時のフランスは第三共和政であった。

 私の第一外国語は英語、第二外国語はフランス語、そして第三外国語はドイツ語であった。篠原先生の下では、専らドイツ語ばかり使っていたので、フランス語が錆び付いて閉口したものである。それでも、頑張って第三共和政の歴史を繙き、不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)で有名なアリスチド・ブリアンをテーマとして取り上げることに決めた。

 東大法学部にはヨーロッパ政治史のほかにヨーロッパ外交史という講座もあり、その担当教授がフランスの専門家であったが、私が学生時代に急死し、フランスに詳しい専門家がいない状況だった。

 そこで、私は、この分野の世界一の専門家であるパリ大学の先生に直接指導してもらうことを考え、拒否されることを前提に、その旨を記した手紙を書いて送ったのである。