国際政治学講義㉑:(4)20世紀の意味 ②社会主義の世紀・・❺ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 50年前の1968年5月、フランスで学生の反乱、5月革命が起こった。フランスでは、ルモンドなどの新聞でも特集が組まれるなど、当時が回顧されている。とくに、フランスではマクロン政権に対する労組などの抗議運動が起こっており、50年前と比較されている。

 私は、当時は東京大学の学生であったが、日本でも、アメリカでも、先進民主主義国で学園紛争の嵐が吹き荒れた。東大では入試がなくなり、私たちは1年間、授業のない学園生活を送り、その遅れから卒業は3月末ではなく、6月末になってしまった。アメリカでは、ベトナム反戦運動が激化した。

 この当時の若者の運動に共通していたのは、授業料値下げといった物質的な要求ではなく、意思決定過程への参加要求のような脱物質的な要求であった。ロナルド・イングルハートは、これを「ポスト・マテリアリズム(脱物質主義)」と呼んだ。

 社会主義は物質的な改善要求をうたうものであり、この脱物質主義は、豊かな社会の若い世代が社会主義に背を向け始めたことを意味する。学生運動では、日本共産党(代々木)の民青が物質主義であるのに対し、反代々木の全共闘は脱物質主義であった。

 1960年代の日本は高度経済成長を謳歌した。まさに「豊かな社会」を実現したのである。今日よりも明日が、明日よりも明後日がより豊かになるという信念を皆が抱いた時代である。軍事外交の面でも、アメリカの核の傘の下に安住し、自らの戦略を立案する必要もなければ、その気もなかった。すべて、アメリカ追随で事足りたのである。

 国際政治の荒波にさらされない温室の中で、「革新」、つまり左翼勢力は、理想主義的観点から、日米安保反対を唱え続けた。

 戦後日本の不幸は、防衛問題、つまり日米安保、自衛隊への態度が、保守と革新を分ける基準となったことである。賛成する者が保守、反対する者が革新であり、この区分は今も続いている。当時は、保守は親米、革新は親ソ連という図式であったが、日本社会党に代表される革新は、国会では過半数を制することはできなかった。

 しかしながら、言論界においては、革新勢力のほうが圧倒的に強かった。それは、自民党が一党優位で権力を維持し続けたために、権力を監視することが仕事であるマスコミは、反自民、反保守と左翼路線をとらざるをえなかったからである。