国際政治学講義⑳:(4)20世紀の意味 ②社会主義の世紀・・❹ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 小学生の私はスプートニクが天空をめぐるのを眺めて感激したが、そのときのことは今でも鮮明に覚えている。しかし、宇宙開発の分野でソ連に先を越されたことに衝撃を受けたアメリカでは、1960年の大統領選挙でニクソンに勝ったケネディがアポロ計画を発表し、ソ連に追いつけ追い越せと全力をあげることにした。

 宇宙でソ連が一歩先を行っていることは、知識人のソ連に対する幻想をますます強めることになった。

 さらに、発展途上国の成長モデルとしても、ソ連型の計画経済が喧伝された。第二次大戦後にアジアやアフリカで植民地が次々と独立し、近代化への離陸を試みるが、日本の多くの知識人は、自由放任の資本主義よりも、計画経済の社会主義的手法のほうが効率的で権力の腐敗が少ないという考えであった。

 東西冷戦は、朝鮮半島、そしてドイツに分断国家を生むことになったが、植民地の独立にも影を投げかけ、同様な事態が起こった。

 インドシナ半島のベトナムでは、ホー・チミンが舵を取る社会主義のベトナム民主共和国はフランスと戦火を交えた(独立戦争、第一次インドシナ戦争)。1954年5月のディエンビエンフーの戦いでフランスは敗れ、7月にジュネーブ協定が締結され、フランスはベトナムから撤退した。そして、17度線を境に南北二つの国、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)が誕生した。

 北ベトナムの攻勢に対抗して、アメリカは南ベトナムを支援するが、1962年2月にはベトナム戦争に引きずり込まれていく。

 1960年代に、日本の知識人は「ベトナム戦争反対」の論陣を張った。私は大学生であったが、キャンパスはこの「ベトナム戦争反対」のスローガンで溢れていた。ソ連は、「アメリカ=腐敗した資本主義=帝国主義」vs「ソ連邦=清潔な社会主義=平和主義」という図式のプロパガンダを流し続け、それは大きな効果を持った。

 このソ連による宣伝と日教組の左翼教育が相乗効果をもたらして、「左翼でなければ人でなし」という空気がマスコミや論壇を支配したのである。

 しかし、全体主義独裁というソ連の本質はいささかも変わらなかった。国内で政治的自由を弾圧するのみならず、1956年にはハンガリー(ハンガリー動乱)で、1968年にはチェコスロバキア(プラハの春)で、自由を求める動きを戦車で潰したのである。ソ連の介入の根拠は「制限主権論」という手前勝手な論理であった。

 西欧の知識人は1939年の独ソ不可侵条約以来、ソ連の本質を見抜いていたが、日本の知識人はこの期に及んでも社会主義への幻想を抱き続けた。たとえば、丸山真男は「ベトナム戦争に反対した者のみがソ連を批判できる」と述べたが、これこそ「進歩的文化人」の限界を露呈した発言であった。