国際政治学講義⑲:(4)20世紀の意味 ②社会主義の世紀・・❸ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 第二次大戦後、軍国主義への反省もあって、日本の言論界では、左翼的思想が右翼的思想よりも好まれる傾向があった。日本を占領したGHQもまた、軍国日本の指導者の公職追放や平和憲法の制定に見られるように、左翼的ユートピア思想が強かった。

 これは、マッカーサーの取り巻きであるバターン・ボーイズの考え方であった。彼らは、バターンで戦ったのでこう称されたが、この若いユートピア主義者たちは、フランクリン・ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策に心酔し、それをさらに進めようとしたのである。彼らは、アメリカではその夢を叶えることができなかったので、それを日本で実現させようとした。

 時代は、米ソ冷戦へと進んで行く。ヨーロッパでは、1948年4月にベルリンが封鎖され、1949年4月にNATO(北大西洋条約機構)が発足する。アジアでは、1949年10月1日に中華人民共和国が誕生する。さらに、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発する。

 因みに、この朝鮮戦争は休戦協定までしか行われておらず、正式な戦争終結が6月12日にシンガポールで開催される予定の米朝首脳会談で議題になると予想されている。

 東西冷戦の激化は、占領下の日本にも大きな影響を及ぼし、保守化が進んでいく。1950年にはレッド・パージが行われ、警察予備隊も作られ、再軍備化となる。これを「逆コース」と呼ぶが、それに反比例するように、知識人の左傾化はさらに強まっていく。

 「保守=親米=軍国主義」vs「革新=親ソ連=平和主義」という対立図式が言論界で喧伝された。スターリン独裁のソ連でおぞましい血の粛清が行われたことなど、日本のインテリは知らなかったのである。

 ところが、1956年2月、フルシチョフがスターリン批判を行う。これが日本にも伝えられ、日本の知識人に大きな衝撃を与えた。そのため、転向する者も大量に出てきた。しかし、このスターリン批判は、スターリン個人の過ちを指摘するものであり、ソ連や社会主義そのものを批判するものではなかった。

 しかも、フルシチョフがアメリカとの平和共存路線を追求したために、ソ連の平和イメージがさらに強化されることになった。1957年10月4日、ソ連は、史上初の人工衛星、スプートニク1号の打ち上げに成功し、科学技術の先進国というブランドも獲得した。この技術が軍事に転用されればアメリカを核攻撃できるため、アメリカは大きなショックを受けた。