政治学講義⑱:(3)統治と選択⑥法の支配・・Ⅲ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 「平和な支配」としての政治が機能する前提は、「法の支配」が確立していることである。つまり、手続き、ルールという「文明の作法」が守られるということである。

 中世の魔女狩り、中国の文化大革命時の人民裁判などは、これとは対極にある。

 私の好きな戯曲に、ロバート・ボルトの『全ての季節の男—わが命つきるとも』(Robert Bolt、”A man for all seasons”1960年)がある。1966年には映画化もされており、第39回アカデミー賞では8部門にノミネートされ、うち作品賞、主演男優賞など6部門を獲得している。

 この作品は、『ユートピア』の著者、トーマス・モア(1478~1535年)の生涯を描いたものである。モアは、1517年にチューダー王朝に召し抱えられ、1529年には大法官の地位にまでのぼりつめる。

 ところが、モアが仕えたヘンリー8世はカトリック教会の認めた王妃と離婚し、教会の認めない女性と結婚しようとする。しかし、モアはその結婚を正当化する法はないとして反対する。

 ローマ教皇と対立するヘンリー8世は、イギリス国教会を作り、離婚に反対したモアをロンドン塔に幽閉する。そして、モアは断頭台の露と消えていく。

 戯曲の一部を引用する。

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 ローパー:なるほど、あなたは悪魔にさえ法律の恩恵を与えようとなさるのだ!

 モア:そのとおり。君はどうしようというのかね?法律を切りたおし、悪魔のあとを追う道を開こうと言うのか?

 ローパー:そのためならイングランドのあらゆる法律を切りたおします!

 モア:では、最後の法律を切りたおし、悪魔がふり返って君におそいかかったら、どこに身を隠す、ローパー、いっさいの法律が倒れているのだぞ。私は、悪魔にさえ法律の恩恵を与えるだろう、私自身の安全のために。 

*        *      *

 国王の政治的圧力に屈して法を守らなければ、法が自分を守ってくれなくなる。今日でも、検察官や裁判官が世論の動向を忖度して、法の公平な適用を行わない例があることは周知の事実である。ポピュリズムの怖さがそこにある。

 ヒトラーのような現代の独裁者は、メディアを駆使して大衆を洗脳する。警察権力や司法権力までもが大衆迎合的になって、ルールや手続きを無視すれば、それは単に冤罪を生むのみならず、民主主義を葬りさることにつながる。

「悪魔がふり返っておそいかかったら」、それに対抗する手段は「法の支配」しかないのである。