政治学講義⑰:(3)統治と選択⑥法の支配・・Ⅱ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 ルソーが権力の起源について論考を重ね、「一般意志(volonté générale)」の概念を提示し、多数の人民が権力を掌握する民主政を構想する。これに対して、モンテスキューは、王政、貴族政、民主政を問わず、専政を避けることが重要だと言う。つまり、権力の起源よりも権力行使の態様を重視するのである。

 現代の先進民主主義国において、ルソーの理論は主権在民として定着しているが、モンテスキューの「抑制と均衡(Check and Balance)」の主張が必ずしも活かされているとは限らない。実は、「平和の支配」としての政治は、三権分立が有効に機能し、専政に陥らない状況を作るための技術である。

 アメリカの大統領制は三権分立を徹底させたものである。しかし、行政権と司法権との関係については、最高裁判所の判事は大統領が任命するので、大統領と同じ政治的傾向の裁判官が任命されがちである。ただ、この際にも上院が不承認という形で牽制する事が制度的に可能である。立法権と行政権については、議会は大統領による閣僚などの人事を認めなかったり、大統領を弾劾したりする権限を持っている。

 イギリスや日本のような議院内閣制においては、立法権と行政権の間の緊張関係は、大統領制ほど高くはない。議会の多数派の代表が内閣総理大臣になるので、政府提出の法案は基本的には議会で可決される。日本の場合、二院制で参議院の権限が強いため、衆参両院で多数派が異なる、いわゆる「ねじれ国会」の場合には、内閣は国会運営に苦労する。日本の司法については、憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ」と規定されている通り、行政権や立法権に政治的に左右されることなく機能していると考えてよい。

 ところで、現代の先進民主主義国では、制度設計上はルソーやモンテスキューの思想が反映されているとはいえ、その制度を機能不全にするのが大衆であり、「世論」という名の怪物である。

 大衆は、独裁者以上に専制的になることができる。マスコミ、そしてSNSによって形成される「世論」が暴風雨となって「法の支配」、「平和な支配」を覆す危険性がある。日本の政界を揺るがしたロッキード事件(1976年)やリクルート事件(1988年)のような大事件について、怒りの「世論」に配慮するあまり、公平な法の適用がなされなかったのではないかという声もある。 

 大衆による専政に対抗するためには、「法の支配」を徹底するしかない。検察や司法までが、「世論」に左右されるようになれば、「法の支配」は有名無実化し、「平和な支配」としての政治は暴力に道を譲ることになり、ファシズムという代価を支払うことになる。

 ポピュリズムが跋扈し大衆迎合主義の劇場型政治に有権者が翻弄されている欧米先進国において、極右、ネオナチが台頭してきているが、今こそ「法の支配」の重要性を再認識すべきである。