政治学講義⑫:(3)統治と選択②包括政党の行方 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 統治することは選択することであるが、その選択をできるだけ意識させないことが、「平和な支配」としての政治の技術である。天下太平の世であれば、国民は統治者の選択などに関心を持たない。

 佐藤栄作は、1964年11月に首相に就任して以来、1972年6月の退陣まで7年8ヶ月にわたる長期政権を維持した。在任中は沖縄返還を実現させるなどの成果をあげたが、「昭和元禄」と呼ばれた高度経済成長の恩恵を受けた国民は、まさに鼓腹撃壌状態にあり、平和と繁栄の中で辛い犠牲を強いられるようなことはなかった。

 支持率もさほど高くなく、地味な政権であったが、それだからこそ目立たない「平和な支配」が可能だったとも言えよう。戦後の講和問題に直面した師の吉田茂よりも、はるかに恵まれた状況での宰相であった。

 指導者が行う選択を有権者に意識させないためには、なるべく多くの国民に受け入れられる政策を策定したほうがよい。特定の階層、特定のイデオロギーに向けた政策では、それに反対する人々の反発が強くなり、統治者による選択が目立ってしまう。

 そこで、政権を目指す政党は、あらゆる層にアピールするような政策を掲げるようになる。そのような政党のことを、オットー・キルヒハイマーは「包括政党(catch-all-party)と呼んだ。「総花政党」と訳してもよい。「花より団子」、つまりイデオロギーよりも経済的利益が優先されるようになる。

 そのため、先鋭化した一部のイデオロギー政党を除けば、政党間の政策乖離が少なくなっていく。この現象を「野党の凋落」と呼んでもよいが、これは佐藤栄作が政権を担った1960年代の高度経済成長の時代であり、先進民主主義諸国で顕著に見られた状況である。豊かな中産階級が大量に生み出され、平和と繁栄の中で社会の統合が進んだ時代であった。

 キルヒハイマーは、この状況を「マスメディアが(民衆を)一体化し、平準化するように左右し、社会の分極化がある程度まで縮小すると、古典的な議会内反対(派)という、我々の政治的遺産の微妙な部分の衰微を示す明確な一段階が来る」と説明している。

 1968年には、先進民主主義諸国でパリの五月革命、日本の学園紛争、そして、西ドイツやアメリカでも同様な若者の反乱が起こったが、その背景は、先進民主主義諸国における高度経済成長である。したがって、そこでは旧左翼のような物取り主義の「物質主義」的要求ではなく、政策決定過程への参加などの「脱物質主義」的要求が主になった。

 それは、ロナルド・イングルハートが『静かなる革命—政治意識と行動様式の変化』(1977年)で分析している通りである。アメリカを中心に、ベトナム反戦を唱える若者たちは、伝統的な体制や価値観を否定するヒッピー現象を巻き起こしたが、それは戦後の繁栄が生み出した「豊かな社会」への反抗であった。

 その後、若者の政治意識がどのように変遷してきたかは、後述するが、50年後の今日、状況は大きく変わってしまった。1960年代の高度経済成長とその恩恵を受ける広汎な中産階級が存在する時代は終わり、低成長と経済のグローバル化に伴う格差の拡大が目立つ時代となっている。

 トランプ大統領や欧州の極右政党のように、経済成長から取り残された人々に過激な言葉で極端なナショナリズムを訴える政治勢力が台頭してきた。そこでは、多くの層を引きつける政策を掲げる包括政党は選挙で苦戦するような状況となっている。