政治学講義⑬:(3)統治と選択③アリストイによる政治 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 選挙の際に、各政党は自らの政策を公約として掲げる。選挙に勝って政権を獲るということは、その政策が多数の支持を得たことを意味する。しかし、いったん政権に就き、統治を始めると、勝率にもよるが、自らを支持しなかった有権者にも配慮が必要になってくる。

「包括政党」は、まず選挙で勝つために広汎な層が受容できる政策を掲げるが、政権に就いた後も、さらに支持層を広げるために政策の総花性を強めていく。

 J・S・ミルが言うように、民主政治は「数的な多数者の支配」であるが、「支配的な権力が、すべての人々の利益を公平に尊重」しないで、「党派的または階級的な利益に支配される」ことがある。そして、「自分の利己的な利益を好む傾向」や「間接的で遠い先の利益よりも目先の直接の利益を好む傾向」が強まる危険性がある(『代議政治論』1861年)。

 その意味で、包括政党化には、一定の評価すべき点がある。現代の先進民主主義国においては、多くの場合、政党間の連立で政権が組まれるが、この場合も、理論的には連立交渉の過程で各政党の政策の最小公倍数的な政策にまとまることになる。現実はさほど単純ではないが、極論を避け妥協の産物が生まれるので、これもまた包括政党化への流れを作ることになる。

 政治家の仕事が、「希少資源の権威的配分」であり、普通の国民が政治を意識せずに日々の生業に精を出すことができる環境を整えることであるとすれば、その仕事に従事する人は少数でよい。皆が生業を放り出して政治の営みに容喙する事態は、「平和な支配」としての政治の失敗である。

 したがって、近代民主主義が確立する前は、お金と時間に恵まれた人々が政治の営みに携わった。アリストテレスが、国家(ポリス)の理想的な制度として、貴族政(アリストクラティア)をあげたのは、政治が「高貴なるもの(ト・アリストン)」を目標とする有徳者、つまり「最善の人たち(アリストイ)」によってなされるべきだと考えたからである。 

 近代民主主義が確立すると、政治家となる人々は、「職業としての政治」を選択するのであり、原則として他の大多数の人たちのように生業を持たない。むろん、北欧諸国の地方自治体の議員のように、生業を持ちながら、夕方以降に議場に集まる例もある。また、特定の地域に限定された形で、住民運動のように、直接民主主義的な政治が展開されることもある。

 その場合には、たとえば原発やゴミ処理場や米軍基地に反対する運動のように、単一争点政治(シングル・イッシュー・ポリティクス)となることが多い。アリストイが関心を持たねばならないのは、全ての領域である。「政治は24時間、365日、一刻たりとも休みはない」というのは、そういうことである。アリストイによる政治は、国家の舵取りという大局的で大所高所に立って社会の諸利害の調整を行うものである。

 現代では、アリストクラティアに戻るわけにはいかないが、大衆民主主義の危険性を忘れないためには、アリストテレスの主張は聴くに値する。実際、イギリスでは、EUから離脱することの是非を問う国民投票(これこそ、まさに単一争点である)で、離脱賛成派が勝利し、その結果にイギリスもEUも大きなコストを払う羽目になっている。