政治学講義③:(1)政治とは何か③可能性の技術・・Ⅰ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 政治における友・敵関係に着目したカール・シュミットは、「友・敵区別の存在しない世界は、政治のない世界である」と断じた。マキャベリやホッブズもまた、同様な観点から政治をとらえている。前者は権謀術数で、後者は「万人の万人に対する戦い」で有名である。

 戦争や革命では武力が手段として使われるが、そのような極限状態のみが政治の世界ではない。むき出しの暴力に訴えることなく、説得や話し合いで「希少資源の権威的配分」が可能ならば、それにこしたことはなく、政治のコストも低減される。

 ここで、宣伝、広告、洗脳などの「説得と誘惑の技術」(J・A・C ブラウン)が有効になる。知性(「人間は理性的な動物である」)のみならず、欲求や情緒(「人間は非理性的な動物である」)に訴えるため、たとえばカネ、酒、女など、あらゆる手段が動員される。

 少し文脈は異なるが、自民党の派閥はカネとポストの配分単位である。政府閣僚や国会役職や党役員のポストを得ることができなかった議員に対して、田中角栄幹事長は「車でもつけてやれ」と公用車の割当を指示したという。これも人心掌握術の一つである。

 また、恫喝も有効である。マキャベリは、君主の統治技術として「愛されるよりも恐れられよ」と勧めている。その典型がチェーザレ・ボルジアであり、その「残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠をまもらせる結果」をもたらしたのである。

 政治は、「可能性の技術」であり、あらゆる知恵を絞り、技を発揮して問題解決を試みる。問題がこじれればこじれるほど、「政治的」解決に期待がかかる。実は、これは、政治の世界では日々行われていることである。

 国会では与野党の攻防が繰り返されるが、予算案にしても法律案にしても、成立させる期限がある。与党が力で押し切る場合もあれば、野党の要求を部分的に容れることもある。

 私が厚労大臣を勤めていたときは、いわゆる「ねじれ国会」で、参議院では野党のほうが多数であった。そのため、法案の成立のためには、参議院による修正や付帯決議によって解決することがあった。予算案については、憲法60条の30日という自然成立規定が参議院の議決を促した。因みに、私が国会議員だったとき、憲法59、60条に定められた両院協議会で与野党が一致したことは一度もなかったと記憶する。

 「可能性の技術」には、様々な妥協も含まれるが、それは与党による強行採決、野党による審議拒否といった結末を避けることにつながる。官僚には権力者の意向を「忖度」できても、「可能性の技術」を行使することはできない。それは政治家の仕事である。その力が存分に発揮されるとき、政治は高く評価される。

  因みに、国会でこの妥協の技術を発揮する最高司令部が国会対策委員会であり、国会運営に絶大な権限を持つ。私が大臣のとき、大島理森氏(現衆議院議長)が国対委員長であり、閣僚を呼びつけて叱責するのが常であった。