ようこそ!!
神様、スピリチュアル、料理に漫画
好きなことを好きなように好きなだけ発信中。
新地亜紀と同居人みっちゃんです。
いつもご訪問ありがとうございます。
*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*
五瀬命―いつせのみこと―
『日本書紀』では、彦五瀬命―ひこいつせのみこと―と表記。
天津日高日子波限建鵜草葺不合命
ーあまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえずのみことーと、
玉依毘売―たまよりびめーの間に生まれた御子神の長男です。
神名の「五」は、「厳」や「斎」、
「瀬」は「早稲ーわせー」の「せ」で、
「神稲」を表すことから、穀物神と考えられています。
神武東征の初期段階において、五瀬命を中心に話が展開されていることから、
本来、天照大御神の直系として、
稲霊を継ぐ地位にあったと考えられているようです。
末子の若御毛沼命ーわかみけぬのみことー ( = 神武天皇 ) が45歳の時、
「日向の地では、国全土に目が届かない。
国を治める為に、どこか良い土地はないだろうか?」
と五瀬命が言い出し、二人で相談した末、
塩椎神ーしおつちのかみーの助言に従い、
東の大和国へと向かう事にしました。
末子が45歳で、間に二人の兄弟神がいることを思うと、
五瀬命も50歳前後となると思いますが、
ここまで、四兄弟がどう過ごしていたかの記述はありません。
各地での滞在を繰り返し、16年以上もの月日を掛けて、
( 各地に滞在した年月が、7年や8年ですが、
7や8は、沢山という意味なので、実際に16年という訳ではない。
という考えもあるようです。
また、『日本書紀』では、6年程の月日になっています。)
浪速国へと上陸をした時、反抗勢力であった、
登美能那賀須泥毘古ーとみのながすねびこーの襲来に遭い、
那賀須泥毘古の放った矢が、五瀬命の腕を射ぬいてしまいました。
「我は日の神の子。日に向かい戦う故に、
賤しき者の手で、怪我を負わされた。
これよりは、日を背にして敵を討たん ! 」
五瀬命がそう言ったので、一行は、進路を南へと変え、
紀伊国より大和国へと入ることにしました。
しかし、紀伊国の男之水門ーおのみなとーにて、
那賀須泥毘古に射られた傷からの大出血で衰弱し、
「賤しい敵のために傷を負い、死んでいかねばならぬのか!! 」
と叫び、絶命したと言われています。
あくまで、神武東征に従軍したとされ、
末子の若御毛沼命が、主体となっている旅であったようですが、
上記にも書いた通り、その言動から、
主導権は、長兄の五瀬命にあったように感じられます。
頼りになる、良いお兄さんであったのでしょう。
『古事記』では、男之水門にて亡くなったとの記載があるだけですが、
『日本書紀』では、紀伊国の竈山ーかめやまーに埋葬されたとあり、
宮内庁が定める陵墓があります。
ご神徳 国家安泰
五穀豊穣
心願成就
陵墓 竈山神社の本殿後背にある 竈山墓ーかめやまのはかー
五瀬命が、東征を言い出したり、
太陽を背にして~と言っている台詞が、
全て若御毛沼命が言ったと、解釈されているパターンもあります。
ここからは亜紀がお送りします。
五瀬命。
神武東征は有名で、
後に神武天皇となる若御毛沼命が、
主体になっていたような、
しかももっと若かったんじゃないのか?!
と、いうイメージがありましたね。
私は。
さて、五瀬命にコンタクトを取ってみましょう。
「賤しい敵のために傷を負い、死んでいかねばならぬのか !! 」
と叫び、絶命したいわゆる
「憤死」
その割には落ち着いた風貌です。
まぁ那賀須泥毘古はその後討たれ、
面々と続いていく天皇家に比べ、
那賀須泥毘古の一族は絶えているので、
恨みもそこまでではなくなったという事か。
神上がりして祀られている内に浄化されたのか。
堂々と安定した雰囲気の神様。
個人的なお願いより、
集団の為にお願いする方が聞いていただきやすい感じ。
チームとか会社とか国とか。
集団の幸せや利益についてお願いするといいかな。
*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*
【YouTubeチャンネル】
【登録してね!】
料理、スイーツ、日本の神様
漫画、イラストなど私たちのお気に入りをアップしています。
運氣予報も更新!
クリックで応援お願いします。