信用貨幣論批判への反論 / 資産効果についての考察 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、望月夜様の寄稿コラムです!

今回は「貨幣の循環的論理」というものを紹介しつつ、それは貨幣論としてはあまりに拙いという議論が展開されております。

大雑把に私(ヤン)の理解で「貨幣の循環的論理」を端的に表現してみると、どうも「合理的経済人」と同じ匂いがする・・・という感想です。

本日も読み応え十分!

現在進撃の庶民では寄稿コラム執筆者を募集しております。執筆いただける方はアメーバメッセージでご連絡ください。
※アメーバアカウントが必要です

⇒ブログランキングクリックで進撃の庶民を応援!


信用貨幣論批判への反論 / 資産効果についての考察~望月夜様

noteにて、「経済学・経済論」執筆中! また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」(11記事まとめ販売)も発売中! その他、「「信用創造」(銀行融資による通貨創造)に関する誤解とその修正」 「政府債務は「将来世代の負担」なのか?」 「主流派経済学の諸概念についての批判的検討」 などなど……


信用貨幣論批判への反論

信用関係(貸借関係)に基づいて貨幣は生まれ、流通しているという認識を批判する形で、岩井克人的な「貨幣の循環的論理」を強弁する向きが後を絶たない。
彼らの言い分ではつまるところ、貨幣というのは「それが先方に受け入れられるであろう」という想像に基づいて流通するのであって、そこに信用関係(貸借関係)が存在する必要はない、というのである。こうした彼らの言い分にはいくつかの陥穽がある。

第一に、もし仮に循環的論理で流通する貨幣があるとして、その貨幣は実のところ、保有者以外から保有者への財の移動が何かしら確約されていることが前提で流通するわけであって、それは(精確に記帳できるわけではないにしても)事実上の保有者債権(裏を返せば、保有者以外の共同体全体の負債)でしかない、ということである。その貨幣にはマクロ的に見た場合の価値はない(あるいは、価値が必要でない)のであり、全体で見ればゼロサムの存在でしかないのだ。
であるなら、それはある種の信用貨幣と理解しても矛盾がないことになり、信用貨幣論の純粋な対抗馬とは言えない。

第二に、そうした循環的論理で流通する貨幣は、先の議論に基づくと、非常に弱い”信用”に基づいて流通することになる、という問題がある。この場合の信用は、「共同体内の他者に対して、貨幣で購入が出来るだろう≡貨幣が共同体内の他者に対して、債権として機能するだろう(相手にとって、負債として機能するだろう)」という意味での信用だ。これはいわば共同体内でババ抜き的なチキンレースをしている状況であって、流通価値はもちろん、流通それ自体も不安定なものとなるであろう。翻って、政府支出で創造されて租税によって回収される通貨currency、融資で創造されて返済で回収される銀行貨幣は、こうした循環的論理よりはるかにはっきりとした、安定的な信用(貸借)サイクルを持つことになり、道理で行けば、こうした通貨の方がより高いヒエラルキーを持つだろう、ということが推察できる。
ここでいうヒエラルキーというのは、より高位の決済手段という意味で、裏を返せば、低位の負債の償還に用いることが出来る、という意味だ。例を出せば、買掛金という低位の負債を、より高位の負債である銀行預金(銀行貨幣)によって決済することが出来るし、一方で、銀行預金引き出しに対しては、さらに高位の負債である現金(currencyの一部、租税貨幣)によって決済することが出来る、といった具合である。
純粋な循環的論理で成り立つ”貨幣”なるものがあったとして、当該貨幣は下位のヒエラルキーしか持ちえないであろう。ましてや、通貨(租税貨幣)のように、全ての下位の金融貸借の単位として利用されるような最高位のヒエラルキーを持つ、というのは考え難い。

第三の陥穽としては、第二の陥穽とも関連するが、租税に紐づけられないcurrencyがあったとして、それが流通するか、というものである。裏を返せば、現行の租税貨幣から租税を断ち切ったとして、当該租税貨幣が以前のヒエラルキーを保つことが出来るか、という問題だ。
もちろん、慣性的に、租税による最終需要を失った通貨が(それこそ、循環的論理に基づいて)しばらく流通する、ということは、全くあり得ないとは言えないかもしれないが、歴史上の「滅びた政府の政府貨幣」が辿った経路と同様に、遠からず流動性を失っていくと考えるのが自然であろう。
そうしたcurrencyは、骨董品的にオークションなどで売買されるのみで、金融取引の単位としての機能は早晩失われ、以前のヒエラルキーも必ず喪失することになるであろう。それ以前に、今我々が用いている円自体、円による租税体制の整備がなければ、流通することがなかったであろう、と考えたときに、租税とcurrencyを断ち切っても問題ない、と一瞬でも考えてしまうような浅薄さは、実に度し難いものがあると言わざるを得ない。

第四の陥穽としては、「貨幣の起源と本質を訪ねて」 https://ameblo.jp/shingekinosyomin/entry-12351254185.html で論じたように、そもそも歴史的な貨幣研究の結論として、貨幣は信用(貸借関係)の記述手段として生まれ、そこから決済手段としての機能を確立したということが得られている、という事実を踏まえていないというところである。
つまり、循環的論理は、少なからず実際の貨幣史から遊離した空論的な側面があるというわけで、そうした議論にはあまり真面目に取り合う意味はないのかもしれない。

――――――――――――――

資産効果についての考察

「なぜ株式等の資産価格上昇が消費を追加する効果(資産効果)を持ち得るか」という問題は、何となくの直観で当たり前にされがちであるが、よくよく考えるとそんなに簡単な話ではないように思う。そもそも資産価格というのがどのように決まってくるのか? まで考慮しなくてはならないからだ。

資産価格、特に市場価格は、おおまかに言えば、その資産の利回り(配当や金利、賃料など)と、市場金利の兼ね合いによって決まってくる。例えば、配当が一定としても、株式市場に資金が流入し、市場金利が引き下がれば、資産価格は上昇することになる。
つまり、仮に配当が一定とすれば、株価の上昇は、市場金利の低下に基礎づけられるわけである。もし仮に市場金利の低下が、貯蓄需要の強化(消費性向の弱化)にあるのだとすれば、市場金利低下による株価上昇は、その裏にある貯蓄需要増加にキャンセルされることになる。

もちろん、この話は、個々人の貯蓄性向の差を考慮していない話であって、例えば、市場金利の低下に伴って、より貯蓄性向の低い株式保有者が、貯蓄性向の相対的に高い他の主体へと株式を売却し、買い主から得た売却益で消費を行う、といったことは十分に考えられるが、やはりトータルでは同じ事になる。

しかしながら、市場金利の低下が、例えば資金需給の緩和に基礎づけられていた場合は、これは貯蓄性向の強まりを反映するというよりは、むしろ投資拡大に影響するものになるだろう。そこで観測されるのは、『結果』としての投資拡大→乗数的消費拡大と、それに並行する株価上昇である。
この場合、株価上昇それ自体に消費拡大効果があったというよりは、むしろ株価上昇は金利低下→投資拡大を並行して表現する謂わば代理的指標に過ぎない、と考えなければならない。この場合、純粋な意味での資産効果と見なすことは不可能ということになる。

もし株式等資産の"純粋な"資産効果が働くとすれば、それは資産利回り(配当、利子、あるいは賃料)の上昇に基礎づけられた資産増価に限られるのではないだろうか。
このように、資産価格上昇の"構造"にまで踏み込まないと、資産効果の理解は困難を極める、というか、間違った分析に陥りかねない。

(了)


発信力強化の為、↓クリックお願い致します!

人気ブログランキングへ