貨幣論と国家をネトゲから考える【ヤンの字雷】 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、ヤン様の寄稿コラムです!

 

「通貨における政府と国民の非対称性」について、ヤン様がネトゲに例えて、非常にわかりやすく説明してくださいました。

 

読んで納得。私個人的にも、この論はストンと腹に落ちるもので、通貨の本質をついたものであるように感じたのですが、皆様はいかがな感想をお持ちになられますでしょうか?

 

それではヤン様コラムをどうぞ!

 

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貨幣論と国家をネトゲから考える【ヤンの字雷】

 
 
 

「通貨=借用書」の負債性の議論

 どうやら通貨(流通貨幣)の議論が盛んなようです。火をつけた張本人のヤンでございます。ええ、なにやらコメントが活発に100くらいまでいっていたので、ビビって巣穴でバンビちゃんのように震えておりました。嘘です。

 拙ブログでも言及したのですが、本日は「通貨というものは、政府と国民では捉え方が違う」「非対称性を帯びる」「したがって理論上、言葉上は債務と債権だが、これまた非対称であるゆえにイメージおよび性質が異なる」というお話をしたいと思います。

 

 どうやら「通貨とは日銀の債務として計上される」という部分、もしくは「通貨=借用書である」という話が色々と話題を呼んでいるようです。

 そして恐らくですが、この議論の根本には「借用書、つまり債務と債権の約束書き」、「債務と債権という対称的な性質が国民と政府にも適用される」という誤解から生まれているのではなかろうか?と思います。

 もう少し簡潔にうずらさんの言葉を借りれば「負債性(返済義務)が、通貨および国債にあるかどうか?」という議論が中核になろうと思います。

 進撃界隈の読者諸氏は直感的には「国債や通貨に負債性はないんじゃ・・・でも理論上は『通貨=借用書』だし・・・」という感じで、混乱されているのだと思います。

 

 本日は「通貨の政府と国民の非対称性」という部分を強調して議論してみたいと思います。

ネトゲ内通貨で考えてみよう

 サタデナイっ!ネトゲ内っ!というわけで、こういう難しい問題はちょっと単純化して考えてみるというのは有効な方法でしょう。

 

 ネトゲをしたことはあるでしょうか?FPSやらMMORPGやら色々とジャンルがありますけれども、私は20代のときにFPS(銃撃戦ゲーム)で廃人になりかけました(笑)まあ、そんなことはどーでもいいや。

 

 一般的にネトゲ内には通貨があります。ネトゲ内通貨を仮に「ゴールド」と呼称しましょう。ネトゲでは様々なイベントをこなすとこのゴールドがもらえます。例えば敵キャラを倒したり、もしくはスキルで何かアイテムを生産したりといった具合です。

 さて問題です。プレイヤーにとっては、このゴールドは色々なアイテムを買えたり、もしくはスキルをアップさせたりするのに使用できるので、あればあるだけありがたいモノです。

 つまり色々とプレイしてイベントをこなして、その価値の対価としてゴールドが手に入るわけですね。ある種の共通債権と呼んで良いでしょう。

 

 では運営にとってこのゴールドは負債なのでしょうか?いいえ、単なるプログラム上の”数字”にしか過ぎませんね?数字さえいじればいくらでも発行できます。なんせ発行主体でありますからね。

 つまりプレイヤーにとってはゴールドは「価値」であり「債権」なのですが、運営にとっては理論上は「債務」としても、単なる数字以上の意味は持たない、というわけです。

 

 では現実ではどうか?早々に結論に入りますが、通貨とは国民にとっては債権(価値)である。しかし政府にとっては理論上は債務だが、単なる数字以上の意味を持たない、という非対称的な性質が通貨、貨幣の議論においてしっかりと認識されるべきであろうと思います。

結論を書いちゃったので、政府の義務について

 ネトゲで例えて単純化してみましたが、ネトゲにおいてもネトゲ内通貨の流通、もしくは価値の担保は「運営がしっかり運営してくれる」という前提条件をもとに成り立ちます。

 しかしこれは「じゃあ、運営がシステム運営(付加価値の生産)をしっかりしたら、運営が発行した通貨という債務を返済できるのか?」というとどうもそうではない。

 通貨という理論上の運営にとっての債務をなくそうとするというのは、つまりはプレイヤーから徴税をしてバランスシート上の数字を減少させる、なくすというわけでしょう。

 しかしそうなるとネトゲ内で通貨の流通量が減る、もしくは通貨が流通しないという現象が起きるわけです。

 なにそのクソゲー?敵を倒してもイベントをこなしてもネトゲ内通貨がもらえない、したがってアイテムも買えないしスキルアップも出来ないというわけで、クソゲーになりますので、運営は「ネトゲ内通貨を発行して流通させる」というのも「運営の責任、義務」として含まれることになります。

 

 要するにですね・・・運営がプレイヤーを楽しませようとすると、バランスシート上は通貨量がどんどん増える=理論上の債務という数字は増えるとなります。

 で、これはじつは「正しい、健全」なのです。中野剛志さんの「富国と強兵」という著書の中で言及されているL・ランダル・レイの現代貨幣論においては「財政支出>税収」が「健全な財政運営である」と定義されます。

 これも「政府にとっての通貨という数字上の債務と、国民にとっての通貨という債権(価値)が非対称的である」からこのように定義されるわけです。

 

 つまり国民にとっては「債務=返さなきゃならないもの」「債権=価値あるものと交換できる」なのですが、政府にとっては「債務=単なる数字」「債権=国民が喜んで受け取ってくれる単なる数字」であるために「国民にとっての債務(および債権)の性質=政府にとっての債務(および債権)の性質」とはならないわけです。つまり非対称的。

 ガンダムで例えると、赤く塗っただけで速度が3倍になるわけです。

 「ザクとは違うのだよ!ザクとは!」と一緒で「負債とは違うのだよ!負債とは!」というわけです。

 理論上は赤い彗星のシャアもザクに乗っているのですけれども、あれはザクという名前の別物なわけですからね。ん?わかりにくい?(汗ダラダラダラ)

 

 さて、これはこのように表現できます。通貨発行権を持つ政府とは、強大な特権を持ったものである。特権を持っているがゆえに、国民のイメージとしての債務と債権という性質は、政府には通用しない(非対称性)。要するに赤い彗星のシャアと一緒で、政府は強者である。

 したがって政府にはノブレス・オブリージュ、持つものの義務と責任が発生する。それは特権を持たない国民を豊かにするということである、というわけです。

 端的にいえば「さっさとケチケチした緊縮財政をやめて、ばらまきやがれ!コノヤロー!」であり「さっさとインフラやら研究開発やら社会福祉やら軍事やら、ノブレス・オブリージュの精神でやりやがれ!コノヤロー!」というわけです。

大衆社会と新自由主義

 一応、我が国は民主政でありますので、政府および国会議員は世論に逆らえない。世論を形成している大衆人(大量人 Mass Man)は「ありとあらゆるものが、自分たちと同じであるべきだ。高尚なもの、貴族的(アリストクラティック)なも、特権的なものは認めない」という性質を持ち、ありとあらゆるものを権利という名のもとに侵食していくわけです。

 「全てのものが、大衆的、大量的、単純的なものへと変貌し、同じように振る舞う」とはすなわち「全体主義」です。

 この21世紀における全体主義とは、政府の特権である通貨発行権すらそのうち攻撃し始めるのではないか?それは例えば仮想通貨という現象に現れているのではないだろうか。

 またはプライマリーバランスの議論や緊縮財政も、そういった証左ではないか。

 

 民衆を大衆化、大量化させるのは共同体の喪失であり、常識の喪失であるとするのならば、まさに新自由主義・グローバリズムとはその尖兵であるといえましょう。なにせ「合理的経済人」「極度の個人主義」「共同体という概念がない」というイデオロギーなのですから。

 こう考えていくと、じつは新自由主義・グローバリズムというのは極度に”革新思想”であり、本質的には”過激派左翼”となんら変わりがないわけです。さらにいえば自覚的か無自覚か?は置いておいても全体主義を志向しているわけです。なんと恐ろしい(!!)

 

 「通貨・貨幣の議論からやや広げすぎた・・・(汗)」とは思うものの、貨幣論からこのようなことまで見えてくるというお話でしたとさ。

(了)


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