中央銀行システムにおける”レガシー”としての国債、そしてOMFへ | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、望月夜様の寄稿コラムです!

OMFとはなんぞや?国債はもはや歴史の遺物かもしれない?国債って必要なの?お金でよくね?

”生きた”経済学の最前線の議論を見れるのは大変貴重です。

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中央銀行システムにおける”レガシー”としての国債、そしてOMFへ~望月夜様

noteにて、「経済学・経済論」執筆中! また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」(11記事¥3800)も発売中! その他、「「信用創造」(銀行融資による通貨創造)に関する誤解とその修正」 バブルと長期停滞の関係と対策 / "北欧モデル"の落とし穴」 「ポリシーミックス、ヘリコプターマネー、政府紙幣発行論の違い」 などなど……


ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、私は最近「経済学101」http://econ101.jpに参加する運びとなった。
そちらでは主に第一世代MMTerであるBill Mitchellの翻訳を担当することになっている。
今回は、Mitchellの紹介がてら、Mitchellの記事”Overt Monetary Financing would flush out the ideological disdain for fiscal policy” http://bilbo.economicoutlook.net/blog/?p=34071 における「中央銀行の金融調節と国債の関係、及びOvert Monetary Financing(明示的財政ファイナンス)」について解説したい。

議論前提として、MMTにおいては財政赤字がベースマネーを直接増やす、と認識されていることに注意したい。
政府が財政赤字支出を行う場合、中央銀行はその分だけベースマネーを発行し、市中銀行に付与するからだ。そうしたベースマネー供給によって短期金利が低下する場合は、中央銀行はあらかじめ保有している国債を売却することで、ベースマネーを吸収し、短期金利を戻すことになる。

実務では、時系列として、①中央銀行が買いオペでMB供給→①政府+中央銀行が国債発行により一時的にMBを回収→③政府支出を行い、その分だけMBを創造→④あらかじめ買いオペしていた国債を売りオペしてMBを吸収 といったサイクルを踏んでいるが、構造的には①国債の中央銀行直接引き受け→②政府支出によるMB創造→③直接引き受けていた国債の売りオペによりMB回収 としても全く同じだし、他にも①あらかじめの買いオペや直受けもなく、政府支出時点でMBを創造→②中央銀行が中央銀行金融債を発行してMBを回収 という形をとっても全体の構造はほとんど変わらない。(この点については、中央銀行の存在意義と機能限界https://note.mu/motidukinoyoru/n/n3d0f6613440eで図解付きで解説しているのでぜひご覧いただきたい)

さて、繰り返しになるが、財政赤字支出の前後でMB需要が変化しないと仮定すると(本当は少し増えるんでしょうけど)、政府支出によるMB創造はインターバンク金利を下げてしまう。
これに対する最もオーソドックスな方法は、上述した通り、既発国債売りオペによる超過準備回収になる。これにより、インターバンク金利はあらかじめ中央銀行が設定している政策金利に誘導される。

次に、よく行われている方法というのが、超過準備に付利をつけて、インターバンク市場に超過準備が放出されないようにする、というものである。
この場合、記事内でミッチェルの指摘するように、「付利のある超過準備」と「有利子政府債券」は、実は全くの等価物になる。

最後に、日本で過去に行われていた手法というのは、政策金利自体をゼロに下げるというものだ。つまり、超過準備による短期金利低下に際して、政策金利の方から合わせていくという具合のもので、事実上の”政策金利ターゲティングの放棄”と言えばよいものになる。そういう方法もあるわけだ。

そこでミッチェルらが言っているのは、「政策金利目標を放棄して、インターバンク金利をゼロに貼り付けたとして、何か問題あるだろうか? 金利誘導による支出安定化なんて碌な成績ではないし、システマティックな財政政策調節を用いた方がよほど総需要が安定化するのではないだろうか?」ということなのである。

「付利のある超過準備」と「有利政府債券」というのは、銀行システムから見れば等価物だということはすでに論じたが、もちろん、超過準備は直接的に銀行間決済に使えるが、政府債券は直接的には銀行間決済に使えない、という違いはある。

ただ、例えば、決済需要に応じて政府債券の売却が進み、政府債券の金利が上昇したら、その競争圧力を通じて短期資金融通金利も上がることになる。
というのは、”競争的な”銀行というのは、手元の超過準備を他の銀行に貸し付けたり、他の銀行から利付資産を買い取ったりするチャンスを虎視眈々と狙っているわけで、そこで正金利の政府債券が売りに出ると、そちらに超過準備が集中して、裁定取引によって準備預金融通金利に上昇圧力がかかる。

仮にある特定の政策金利(ゼロでもあり得る)を目指す場合は、そうした準備預金融通金利の上昇圧力を解除するように、政府債券を購入して準備預金を追加することになる。
で、全体を通してみると、政府債券というのは、中央銀行が必要に応じて一定価格(=一定金利=政策金利)で準備預金に交換してくれることが約束されているものになるのである。


こうしてストーリーラインを全体を通じて見てみると、「国債というのは必要なのだろうか?」という話になってきてしまう。
はっきり言ってしまえば、国債というのは、中央銀行システム以前の時代のレガシーみたいなところがあるのだ。

もちろん、国債の存在意義を金融政策手段(金融調節手段)に限局した現行制度みたいな形も、可能といえば可能ではあるのだが、先ほども申した通り、有利子国債というのは付利のある超過準備と全くの等価物なので、国債である必然性はないのである。

まして、ミッチェルらの考えるような恒久的なゼロ金利政策というものが実行されれば、(有利子国債の類似物である)付利のある超過準備すら存在しないということになります。

そこで、Overt Monetary Financingという”指針”が出てくる。
OMFにおいては、統合政府負債は準備預金に一本化される一方、財政政策的調整のみで総需要介入が行われる、という形になる。

もし「国債」「債務」といった言葉に国民・評論家その他が踊らされ、恐怖し、適切な判断が妨げられるようなのであれば、統合政府負債をMBに一本化するという措置は、(経済的には全く変化がないとしても)政治的には有意義なものになってくるかもしれない……というのが、当該記事におけるミッチェルの主張ということになる。

(了)


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