福祉に関わる人たちへ -11ページ目

福祉に関わる人たちへ

人生はどれだけ多くの気づきを経験したかで、如何様にもなるものです。誰かが言っていますよね。「人は思うようにならないと言うが、そう思っているという意味では、思い通りになっている」と。


おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。




あのマザー・テレサのちょっとした気づきのお話。




彼女に対し、ある質問がぶつけられたことがある。


「あなたは平和を愛しているのに、なぜ反戦運動に参加しないのですか?」


反戦運動というのは、戦争に対するアンチテーゼ。


平和を愛するならば、当然、平和を乱す元凶となる戦争に反対する立場を表明して、反戦運動に参加してもよいのではないかということ。




この問いに対してマザー・テレサはこう答えた。


「反戦運動ではなく、平和の集会であるならば私は喜んで参加致しましょう」





引き寄せの法則でも紹介され、有名な言葉だ。




事実を知って批判することは時には大切です。
でも、多数決や何となくの人が多いのではと思う今日この頃・・・


僕だけだろうか?



YESかNOかだけで判断するのは、あまりにも幼稚すぎる。





以前、どこかの記事にも書いたが、
「胡散臭い」「怪しい」=無知



日本人は、正義感に溢れているためか、何か大きな事故や事件ががあると「反対」
と叫びだしたり、24時間テレビのような内容に感動して、その時だけ平和を祈る。

もちろん、その時だけでもいいから、より多くの力を貸してほしいという意図がテレビ側にもあるわけだが・・・



24時間テレビの話をしてしまったので、ついでに・・・

24時間テレビの出演者にギャラが支払われていることを痛烈に批判する人がいる。
これも無知な人の反対意見。



面白いことにお金が絡むと、なぜか無駄に反応するのが人間。



逆に一切、ギャラが支払われなくなったらどうなるか・・・


単純に、出演者は減る。




視聴率は落ち、武道館には誰も行かない・・・
答えは簡単。募金も集まらなくなるということだ。



CMだって、何千万を払うだけの価値があるからこそ、人気タレントを起用する。



反対と元気よく叫ぶ前に、その問題の核心は何なのか?


自分が調べて、考える必要がある。





加害者と被害者がいて、ニュースだけを見て加害者だけを批判するのは、
井戸端会議のお暇なおばちゃんたちだけで十分だ。








おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。







「転ばぬ先の杖」



有名なことわざだ。





要は、失敗しないように十分な対策を準備しようというもの。





支援者が常日頃から意識している部分でもある。








支援者の立場になって考えると、それはそれでたいへんな立場である。







僕がここでも書いているように、企業の人間は「福祉?」「支援?」なにそれ?

「邪魔なんだけど・・・」


なんて思われ、反面、障害者からは、いてくれることを求められたりもする。






また、各支援機関の上からの堅苦しいお決まりもあって、個人の判断のみで行動が出来ない。







板挟みの状態で支援をしているわけだ。







そう、僕だって支援者の立場をよく知っている。






しかし、転ばぬ先の杖を作ることが支援者の仕事と考えるのは誤りだろう。





では、なぜ転ばぬ先の杖を作ることに躍起になる支援者が多いのか?




もし、障害者が転んだら、支援者に原因がなかったとしても支援者の力量に影響を与えるから、
支援者としてはそれを避けたい。




支援者の方、違うだろうか?






だから、いろんな支援ツールを用意して、企業のニーズを無視して持ち込んでしまう。



支援者都合、支援機関都合なわけだ。



一方、本当に熱すぎるくらいに障害者をなんとかしたい、なんとか自信を持ってもらいたいと
支援をする人もいるし、企業と障害者の中立に立ち、双方にとって何がいちばんなのかを考える支援者もいる。



そう、支援者マインドの差が激しい。






これって、福祉や支援者に限らず、どの世界でもありそうなこと。


僕がここで書いていることくらいわかってるよ!と言う支援者もいるに違いない。





世の中は、矛盾だらけの世界だ。







改善したいことはわかってるけど、それができないことが多い。







僕は、たまに思う。



だからこそ、世の中は回り続けるのかもしれないと・・・






マイケル・ジャクソンの「Man In The Mirror」
という曲を聴いたことがあるだろうか?







支援者だって、障害者だって、自分が嫌いな人だって、好きな人だって・・・

みんな、そうみんな、自分を映し出している鏡だと思えばいい。




そうすれば、何を変えればいいのか。

今何をすればいいのかが見えてくる。







まずは、鏡の中の自分から・・・

































おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。




障害者の支援に関して、とても共感したことがある。


それは、ある支援者が講演の壇上で、客席からの質問に答えた時のこと。




質問は、
「どうしても支援をしているとおせっかいおばさんになってしまいます。どこまでしていいのかわかりません」

というもの。




同じく客席で聴いていた僕は、「あ~自覚はあるんだ。でもあの方、どう答えるだろうか?」
少し、息を飲んだ。







その方は、こう答えた・・・







「対象者に「支援してもらった」と思われたら負けだ」

そう思って支援をしていると。






言葉の使い方としてどうかとは思うが、支援とは、本人が自分で問題を解決出来たと実感してもらうことだ。第三者に何かをしてもらったなどと思われたらそれは、支援ではない。





多くの支援者は、「私は支援してます」とご満悦状態なのだが、それらは、自己満足以外のなにものでもない。








極端なことをいえば、感謝される存在であってはならない。





前回の記事で、


"本当の支援とは、支援される側から「ありがとう」と心から言ってもらえる行動のことを言うのではないでしょうか??"



とコメントをいただいた。





そうなのかもしれない。ケースバイケースで支援者と障害者の信頼関係を築くために、
「この人は私を助けてくれる人なんだ」
そう思ってもらうことから始める場合もあるから。





しかし、それは表面上でしかない。
最悪の場合、「助けてあげるから私の言うとおりにしなさい」となる場合もあるだろう。







どんな人でも、何かに気づく時期というのは異なるものだ。







「今、こうすることがあなたの為なんだよ」




そんなこと、今わかるはずがない。






支援者は、今すぐに支援者としての自分が何をしなきゃいけないか?ばかりを考えてしまう。






そして、それを他者にも求める。










暴走発言になるかもしれないが、一度、支援者や福祉の仕事をすべてなくしてしまえばいい。








世の中は、それでも回っていくものだ。









「支援してください」という障害者


「支援してあげます」という支援者










どうやってお金を稼ぐか、どうやって日本経済を潤沢にしていくかと考えている
企業人にとっては、理解不能の世界でしかない。







僕は、よく知ってる。






障害者が障害者じゃないということを。







どうしても「障害者」という存在を作りたいのなら、それは世間体に囚われている健常者と呼ばれる側なのではないだろうか?





自らの思いや考えを麻痺させて生きるほど、意味のない人生などない。















Vol.27 「不必要な支援③」に続く・・・