どうもどうも、けいです。
「高校では何をしていましたか?」という問いに対して、
「地域の魅力を発信する活動をしていました」と答える私。
…ウソじゃないんですが、事実ではあるんですが。
なんかウソを言ってる気分。
そんなことから始まったブログシリーズ第10弾。
本日は妙高高原駅です。よく10個も書けるわ
ではでは、どうぞよろしくお願いします。
10-1.妙高高原駅 概要
妙高高原駅は、新潟県妙高市にあるえちごトキめき鉄道の駅です。
妙高はねうまラインと北しなの線が乗り入れる駅となっています。
かつてはJR信越本線の単なる途中駅でしたが、
2015年の北陸新幹線開業で並行在来線が分離される際、
当駅より北がえちごトキめき鉄道に、南がしなの鉄道に、それぞれ移管されたため、
2社の路線が接続する駅となりました。
この駅から南は長野県となり、管理会社もしなの鉄道に変わります。
また、妙高高原駅は新潟県内で最も南にある鉄道駅となっています
(上越線の土樽駅が僅差で当駅より北に位置します)。
駅構造は2面3線で、1、3番線が妙高はねうまライン、
2番線が北しなの線のホームになっています。
妙高はねうまラインの列車は北しなの線の列車と対面接続ができる
3番線に入線することが多いため、
1番線に入る列車は1日に数本しかありません。
この駅にも駅員キャラクターがおり、
「火打 跳馬(ひうち とうま)」の名前が与えられています。
やっぱり見なくなったわけであって
2023年10月以降はえちごトキめき鉄道とNGT48とのタイアップ企画
「推し駅プロジェクト」の対象駅となっており、
妙高高原駅は杉本 萌さんが推す駅となりました。
10-2.妙高高原駅 駅設備
妙高高原駅は地上駅で、1番線が駅舎と直結しています。
1番線と2、3番線は跨線橋で連絡しており、
大多数の列車を利用する際は階段を昇らねばなりません。
後述するリゾート地・妙高一帯への玄関駅だったこともあり、
跨線橋は通路が広くなっています。
また、荷物用のスロープもあり、妙高高原駅のかつての利用者を想像できます。
スキーやスノーボード、ゴルフバッグなどを持っている方が大勢いたのでしょう。
妙高高原駅は老朽化が目立っており、改修工事の計画も出たのですが、
特に跨線橋の工事費用が予想より高くついたことから断念されました。
跨線橋の竣工は1959年であるらしく、既に築60年以上を数えています。
もはや何かの拍子で倒壊しかねない気もしますが…
それよりも筆者はたまに跨線橋にいるスズメバチが怖い
駅構内や駅付近にはコンビニの設備がなく、
リゾート地の玄関駅としては少々失格気味な気もします。
かつてはKIOSKがありましたが、閉店しました。
トイレですが、改札内と改札外に1ヶ所ずつあります。
改札内のものは1番線上、跨線橋の裏に、
改札外のものは駅を出て右側に、それぞれ備え付けてあります。
また、改札外のトイレの横にはコワーキングスペースがあります。
かつては倉庫として使われていましたが、
リノベーションの形で2020年にオープンしました。
10-3.妙高高原駅 周辺と駅の歴史
妙高高原の町は昔から妙高山麓の町として、多彩な姿を見せてきました。
古代からこの地には人が住んでいたとされますが、
妙高山はわずか2800年前まで活動しており、
麓にあった集落は度々火山活動の巻き添えとなっていたようです。
爆発的な噴火で火砕流なども起きたとされ、一帯は死の地となった、
という話も聞いたことがあります。
中世に入ると妙高山は神域とされ、修験者たちの修行の場となりました。
修験者はこの山を仏教最高峰の山「須弥山」にたとえたとされています
(この「須弥山」はサンスクリット語がもとですので、
日本語にきっちり訳すと「妙高」の意を持ちます。
今でも国語辞典などで「須弥山」を引くと「妙高の意」との記載がありますが、
これが現在の「妙高」の由来になったとも言われています。諸説あります)。
江戸時代には北国街道沿いに宿場町ができた他、
ほど近い信越の国境(新潟・長野県境)には関所もできました。
妙高は交通の要衝ともなっていたのです。
明治維新後、1886年には直江津~関山間に新潟県初の鉄道が開通し、
これが88年になると田口(妙高高原駅の所在地)を通って長野へ延伸されます。
しかし、田口の人々は鉄道を毛嫌いし、
結果として駅を中心地から外れた場所に設けるほかありませんでした。
現代の感覚からすればいささか疑問に感じますが、
当時からすれば鉄道など得体の知れないもの。
田口の人々は鉄道が通れば宿場町が廃れかねないと思ったのだそうです。
こうして1888年、田口駅が当地に開業することとなりました。
さて、現在でこそリゾート地・妙高への玄関駅として栄えたという
歴史認識はありますが、
当時は関山駅より地位は低く、のんびりとした小駅でした。
状況が変わったのは戦後で、当駅周辺でリゾート開発が行われたために、
田口駅の価値は急上昇。
1969年、駅名称を「妙高高原」へと変更し、
リゾート地へのアクセスに一役買う存在となります。
最盛期は当駅を通る列車がすべて停車するようになっていた他、
本来妙高高原駅まで来ないような列車も冬季に限って延長運転。
ついにはバブル期において、年末年始の訪問者数が
東京ディズニーリゾート、湯沢・苗場に次いで全国3位となったのです。
こうして妙高は全国的なリゾート地への変貌を遂げました。
しかし最盛期は儚く終わりを告げます。
1990年代初頭にバブル崩壊が起き、日本のリゾート産業は一気に衰退。
加えて戦後昭和期に起きたスキーブームも去り、
スキーを中核としてきたリゾート地は訪問者数が急減します。
妙高とてそれは例外ではなく、廃墟ホテルの増加、スキー場の縮小・閉鎖、
運営会社の業績悪化、倒産・経営破綻…
1997年には北陸新幹線の長野開業により、
首都圏から直通してきていた特急「あさま」が消滅します。
首都圏がより遠くなった妙高高原は凋落を止めることができず、
現在では鉄道そのものの地位低下もあり、
妙高高原駅の利用者数は200人を切ることとなりました。
しかしながら、妙高高原の観光業者は海外に目を向け、
インバウンド需要の掘り起こしを図っています。
オーストラリアなどでは"Myoko"の知名度も高く
(筆者が実際に京都にて妙高を知っているか外国人に聞いたことがあるのですが、
知っていると返ってきました)、冬季には外国人の姿が多く見られます。
こうした取り組みの甲斐あってか、
妙高高原のグリーンシーズンの来訪者数はバブル期前を超えたといいます。
インバウンド需要で巻き返しを図る妙高高原、今後も注視していきたいものです。
なお、「妙高」の地名の由来ですが、以下の2つの説が確認できました。
・1つ目
中世に現在の妙高山に入った修験者たちが、
この山を仏教世界最高峰の山「須弥山」にたとえた。
この「須弥山」を日本語に意訳すると「妙高」となり、ここから由来している。
・2つ目
かつて「越の中山」と呼ばれていた現在の妙高山が、
好字二字令により「名香山」と改称され、
これを音読みした「ミョウコウサン」に漢字を当てて「妙高山」になった。
以上が由来になります。
えっ?「上越」の由来も話してくれって?…そういえば話していませんでしたね。
新潟県はかつて「越後」と呼ばれていましたが、
これを当時の都であった京都から近い順に「上越」「中越」「下越」と分け、
そのうちの「上越」が市名として使われるようになりました
(古代では「上越後」「下越後」の2区分だったようです)。
現在でも新潟県の区分は「上越」「中越」「下越」(「佐渡」)が使われます。
中越~下越地方に「上越新幹線」が、長岡市までは「上越線」が通っていますが、
こちらは通過する群馬県の旧国名「上野(こうずけ)」と
新潟県の旧国名「越後」の頭文字をそれぞれ取ったもので、
新潟県上越地方とは一切の関係がありません。
歴史的にも上越地方の方が圧倒的に先に使われ始めたのですが、
なんで「上越線」なんて紛らわしい名称にしてしまったのか…
なお、上越線や上越新幹線に並行する高速道路は「関越自動車道」です。こっちでいいじゃん
筆者は混同が嫌なので、他の表現を使える場合はなるべくそっちを使い
(上越国境→三国峠、上越エリア→湯沢・苗場エリア)、
関越側に「上越」の名を極力使わないようにしていますが…路線名とかはもうどうしようもない
10-4.妙高高原駅周辺の施設・名所
・赤倉温泉
ここからしばらく温泉ラッシュになります
「7つの温泉、5つの泉質、3つの湯色」のフレーズは前回紹介しましたが、
「7つの温泉」のうちの1つになります。
あたり一帯では随一の温泉街の規模です。
泉質は硫酸塩泉、炭酸水素塩泉で、江戸時代後期に開湯となりました。
戦後はリゾート地としての開発が進み、
伝統ある温泉街も残しつつ、高級リゾートホテルの建設も進みました。
中でも「赤倉観光ホテル」は当地トップクラスの高級ホテルとして有名です。
付近には赤倉温泉スキー場も営業しています。
また、尾崎紅葉、岡倉天心、与謝野晶子といった明治の文豪たちも訪れています。
特に岡倉天心は赤倉をこよなく愛し、自身の最期は赤倉で迎えました。
赤倉温泉には「岡倉天心六角堂」もあります。
なお、地球では月が太陽を隠す「日食」がときどき観測されますが、
2035年9月2日には太陽が完全に隠れてしまう「皆既日食」が
本州で見られるとされています。これは148年ぶりとのことです。
しかもその中心線が赤倉を通っているということで、
2020年から「2035年9月2日世界で一番皆既日食がきれいに見える温泉地」の看板が
温泉街に設置されています。
問題は天候がいいかどうかって話だ
妙高高原駅から徒歩1時間20分程度ですので、
バス路線「赤倉線」をご利用ください。
・新赤倉温泉
妙高7温泉のうちの1つ。
赤倉温泉の南にある温泉街で、赤倉観光リゾートに近いのはこちらになります。
泉質はカルシウム・マグネシウム・ナトリウムー硫酸塩・炭酸水塩温泉ですが、
源泉自体は赤倉温泉と同じです(北地獄谷)。
当地には慶応義塾大学医学部の山荘も設置されています。
妙高高原駅から徒歩1時間10分程度です。
バスは赤倉温泉と同じ「赤倉線」。
・池の平温泉
妙高7温泉のうちの1つ。
新赤倉温泉のさらに南にある温泉街で、池の平温泉スキー場を併設します。
開湯は1924年です。
泉質は単純硫黄泉で、黒いお湯が特徴です。
温泉街の近くには有名観光地の1つである「いもり池」があり、
天候が良ければ背後に遮るもののない雄大な妙高山が見えます。
4月下旬には10万株のミズバショウが咲き誇る場所でもあります。
妙高高原駅から徒歩58分程度で、バスは「杉野沢線」や「妙高山麓線」など。
・妙高温泉
妙高7温泉のうちの1つ。
1911年に赤倉温泉の分湯として開設されますが、
1921年には赤倉温泉とは違う南地獄谷からの引湯に成功します。
泉質は単純温泉ですが、源泉の南地獄谷が8kmと遠いため、
その間に天然の湯もみをされて柔らかなお湯になります。
高い崖の上にある温泉で、妙高高原駅や妙高高原I.Cに近いのも特徴です。
妙高高原駅から徒歩17分程度です。
・杉野沢温泉
妙高7温泉のうちの1つ。
1997年の開湯で、妙高7温泉の中では最も新しい温泉です。
泉質はナトリウム・カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩・塩化物泉。
スキー場を併設しますが、そちらは「杉ノ原」と名前が少し違います。
山林、田園など、日本の原風景がほぼそのまま残っており、
杉野沢温泉はその中に位置します。
雄大な自然の中で温泉に浸かることができます。
妙高高原駅から徒歩1時間25分程度で、バスは「杉野沢線」です。
・関川関所道の歴史館
温泉おわり
現在主な交通のルートとなっている北しなの線、国道18号線、
上信越自動車道はいずれも関川を渡って新潟県か長野県に入っています。
これはつまり、関川で新潟県と長野県が分かれているということです。
江戸時代の越後・信濃国境も同じで、関所がこの場所に置かれていました。
この関川関所道の歴史館は当時の関所をほぼそのまま再現しており、
資料なども館内に展示されています。
飲食店「御宿せきがわ」を併設し、手打ちそばが名物です。
妙高高原駅から徒歩40分です。
・苗名滝
杉野沢温泉のさらに奥にある観光名所で、落差は55m。
その迫力から「地震滝」とも称されます。
昔の人も同じことを思ったのでしょう、この滝を「なゐ(地震)の滝」と呼び、
これが転じて「ないの滝」→「なえな滝」→「苗名滝」となった、とされています。
また、この滝は関川の途中にあるため、
下流域では頸城平野を潤す水がめともなります。
このことから、「苗名」の名が与えられた、ともいわれています。
滝は4段となっていますが、二の滝、三の滝、四の滝へは行くことが困難です。
江戸時代から旅人が度々訪れる滝だったようで、
文献に名前が見られるようです。
その中でも有名なのが、信州柏原(黒姫駅周辺)で生まれた小林一茶で、
一茶は次の句を残しています。
瀧けぶり 滝の霧は
側で見てさへ 近くで見ても
花の雲 桜の花の雲のようだ
昔から見た人々に感銘を与える滝だったのですね。
妙高高原駅から徒歩2時間程度。
バスだと「杉野沢線」で杉野沢温泉まで出て、
そこから「妙高山麓線」への乗り換えです。
・笹ヶ峰
杉野沢をずっと奥に行ったところにある地域で、
牧場や関川のダム(笹ヶ峰ダム)が存在します。
標高が1300mと高く、避暑地として知られています。
ただし近年の猛暑をしのげるほどかどうかは不明
火打山や夢見平へ行くこともでき、登山者はお世話になる場所でしょう。
もちろん観光で行っても楽しめます。
が、道中がかなり山道のため、乗り物に酔う方は地獄を見ます
笹ヶ峰ダムは上越地域の水がめであり、
ここが枯れると地域一帯で渇水が発生します。
2023年にも、1ヶ月近くの降水がなく、
有効貯水率が一時ゼロになってしまう事態が発生しています。
妙高高原駅から直行バスで50分ほどです。
徒歩?4時間かかりますがいいですか?
・妙高山(越後富士)
新潟を代表する山で、「越後富士」の別名がつけられています。
標高は2,454mで、日本百名山に選ばれています。
火打山、焼山ともに「頸城三山」に数えられている他、
長野県からも見えるため、斑尾山、黒姫山、戸隠山、飯綱山とともに
「北信五岳」も構成しています。
天候がよければ長野県中野市からも見えるようで、
中野市ではこの北信五岳が一度に見られる場所のようです。
実は活火山の1つですが、2800年前を最後に活動していません。
古い文献では「休火山」ともされたのですが、
近年の災害意識の変化でこのような呼び方はされなくなっています。
4つの活動期があり、その中でも第3活動期は現在より標高が高かったとされています
(標高2,800~3,000mと推定)。
しかし、第3活動期末期に大規模な山体崩壊を起こし、
第4活動期初期にはカルデラを形成するに至りました。
その後、中央火口丘が形成され、現在の姿になっています。
妙高山は独特な形をしていますが、このような経緯があったことによります。
▲妙高山の第3~第4活動期のイメージ図。
第3活動期は標高が現在より高かった(左上)が、のちに山体崩壊(右上)。
中央火口丘とカルデラが形成され、現在の姿となった(左下)。
カルデラの外周を成す山は「外輪山」と呼ばれ、
神奈山、赤倉山、三田原山など別の名称がつけられています。
毎年春、山の中腹に雪形が現れますが、
馬が前足を振り上げたように見えることから地元では「跳ね馬」と呼ばれます。
田植え時期などを知らせる春の風物詩である他、
妙高市内では「跳ね馬」の名が施設名などに用いられるなど、
妙高市の象徴ともなっています。
妙高はねうまラインの名もここから来ています。
はねうまラインのワンマン列車車内でも自動放送で妙高山の紹介がされます。
区間は関山~妙高高原間で、英語放送まで入っているという気合の入りよう。
が、運転士の気分次第ではやっぱり強制中断させられます
というわけで妙高高原駅の紹介でした。
妙高はねうまラインの紹介はこれで終わりとなります。
次回からは日本海ひすいラインに入ります。