海峡の町有情 下関手さぐり日記、公共建築 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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市役所庁舎 幻に終った松井構想

下関市役所庁舎と市消防本部の間に「関在番役所址」の碑が立っている。明治二十二年に市制が始まって以来、まる八十八年の下関市の歴史とともに、市庁舎の歩みも、この碑の立つ場所を皮切りにめまぐるしいばかりの変遷を重ねてきた。

もともとは、昔の城山の小高い丘を切り開いて建てられた区役所建物を使っていた。しかし、県下第一の市がこんな庁舎ではいかんと、明治四十一年五月、木造二階建て洋風のものが建設された。ちょうど今の消防本部の場所。東隣りは警察署だった。

昭和十二年二月、名池坂の上り口付近にあった宿直室付近(別館)から出火、庁舎の半分が焼けた。実は、この年六月から市史編さん作業が始まったばかりで、それまでに集めた資料や原稿の大部分が焼失してしまった。なかには再び入手できない貴重なものもあり、影響は予想以上に大きく、結局、市史編さんは中止のやむなきに至っている。

この火災で木造建築物の弱さを痛感させられた当時の松井信助市長は、思い切った鉄筋新庁舎の建設を計画、背後の城山を崩して建てようとした。りっぱな模型もできた。設計には東京大学工学部建築科を卒業した詩人·立原道造もタッチしていた。

立原は十三年十二月に下関を訪れ、そのときのもようを「日記」にまとめているが、この中で、下関駅(当時は細江)の夜更けの感じ 上野駅のプラットホームとよく似ていると表現、そのあとに「終着駅だからだろう。九州朝鮮行と指さしてあるのが、かなしかった」と書いている。

焼け残った旧庁舎の材料で十五年、名池山に図書館も建設されたりしたが、おりから戦争も激化、鉄材が少なくなるなどで当分は辛抱を、ということになり、今の水道局あたりにバラックの仮庁舎が建てられた。しかし、これも戦災で焼け、市役所は商工会議所内にその事務き移していたが、二十年十月、王江国民学校(王江小)に移った。

松井市長の夢も、敗戦、さらに下関が戦災にあったという悲惨な状況のもとでは実現もほど遠く、市長は二十一年二月、公職追放にあって、十五年余りという戦前戦後を通じて最高の長期市長の座を退いたのである。退職後は日和山の自宅で静かな日々を送った。当時の進駐軍は、長年下関市長をつとめた松井に対し恩給の支給をはばみ続け、結局二十四年六月、鉄筋コンクリート庁舎を目にすることなく、松井は寂しく死んでいった。

市役所はその後、重砲連隊跡に移転(二十一年十一月)したが、もとより老朽建物でその上狭くて貧弱、おまけに立地条件も不便だとして、福田泰三市長は、ぜいたくだと言われながらも庁舎新築を決意、設計は当時としては珍しい公募の形をとった。

全国から百四十三点の応募があり、東京の田中誠氏が入選、その後資金面で難航したが、二十八年、現在地にやっと着工、一年四ヵ月の工期で三十年二月に今の市庁舎(一部増築)が完成したのである。建て面積千二百平方メートル、延べ面積八千三百六十平方メートル。鉄筋八階建ての明るいモダンな庁舎は、当時、西日本一の画期的な施設であった。

一時は十五万人まで減少した下関の人口も、この市庁舎の完成した年には二十二万人を突破、そして五十二年には二十七万人だ。市役所に勤める職員数も二千七百人と、市内一のマンモス企業にふくれ上っている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



気象台 警報発令は吹流しで

下関に当たらぬものが二つある。名物フクに天気予報…。フクがあたらぬのはともかく、最近は予報技術も急速な発達を見、この言葉もすでに過去のものとなってしまった。

下関で測候所業務が始まったのは明治16年の1月1日。現在は八ガ迫大山(いわゆる名池山)にあるが、当初はここからちょっと西方の古弁天山頂の民家を借りて毎月三回の観測を行った。十九年に現在地に移転、この頃から西南部の専念寺下の水上警察署付近で気球型の警報標識が登場、停泊の船舶に大いに役立つようになった。この年十月には東京気象台の暴風警報を中継、発表するようになり、翌二十年には風力計も設置、少しずつ測候所らしくなっていった。

ちなみに下関測候所開設は全国で十九番目であった。この年、測候所は国の手き離れて県に移管、以後、昭和十三年まで県営時代が続く。明治二十五年からは地方天気予報も出されるようになったが、何しろこれといった技術者もなく、暴風が来てから警報を出そうか出すまいかと頭をひねることも多かったらしく、警報がいよいよ出るころには暴風も峠をこしおさまっていたこともたびたび。

警報信号には赤い大きな円筒暠栓の上につり下げていたが、とかくこれが遅れがちで、たまに思い切った予報をやると、とんでもない大暴投。当らぬ見本として登場したのはどうもこの頃らしい。短時間の予報なら、門司の風師山に出る雲や、火の山と古城山の空模様などで漁師が判断する天気模様のほうがよほどアテになったこともあったという。当時は職員二人が、午前六時から午後十時までの交代勤務。

あたりは人家もなく、夜ともなると静かなことこの上ない。しかも、名池山の下には墓地が多い。暴風雨警報が東京から来ると、夜中でも信号柱に警報をあげに行かねばならないが、この信号柱のあった場所が、何と永福寺の墓地の中。今でこそ空い話ですまされるが、それはそれは、げに恐しき日々だった…と当時の職員の回顧談として伝えられている。

こうしたなかで、一人光彩き放つ人物が登場した。府立大阪測候所技手、根岸又蔵である。所長として、暴風雨警報や天気予報の周知普及に努力、警報の通報先の増加をはかるなど苦労のかいあって、従来の二等から下関測候所は明治四十一年、一等測候所に昇格し、所長自身も技手から技師に昇任した。根岸は昭和十二年まで実に四十年余にわたって所長をつとめ、関の名物男の仲間入りをしたのである。

この間、大正九年には鉄筋コンクリート二階のりっぱな測候所に増改築された。当時は全国一を誇る堂々たる建物だった。総工費五万四千円。うち県費二万四千円。残りは下関と門司の篤志家の寄付だった。この寄付があったからこそこれほどりっぱな建物になったのだが、いかに当時の人たちが測候所に大きな期待を寄せていたかがうかがえる。海峡に生きる関門の人たちの灯でもあったのだろう。県のほうでも、大正八年には自然災害復旧費が、全土木工事費の50%を占めるに至って、測候所業務の重要性を痛感していたともいえる。

今、下関地方気象台は、県下二十数個所に雨量専門の観測ロボットや雨量・風速・風向・気温の四要素を観測する地域気象観測システム(通称アメダス)を配置、職員もかつての二人から三十人にふくれ上り、万全の態勢。「山口県は三方を海に囲まれ、その海が瀬戸内、日本海、響灘とあって予報も難しいところ。予報は一応三ブロックに分けてはいるが、一般には統合したものが出ているようで…」(明戸謙,台長)と、あいも変わらず苦労の連続。

その気象台も今年秋には名池山から姿を消す。細江埋立ふ頭の市民会館裏にできるモダンな合同庁舎の中に引っ越すのだ。「昔は、吹流しなどで天気予報を出していたため、高台にあることが必要だった。しかし、今はまず交通の便が第一。気象台をとりまく環境も変わりました」と明戸台長。しかし、地震計だけは名池山に残る。埋立地では底の潮の流れや、そばに鉄道が走っていることなどで十分な観測ができないからだ、という。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



鎮海楼 往時の超高級料亭

実にいい名前だ。海峡に臨む料亭。明治二十八年赤間町にできたが、この名付け親は伊藤博文である。「日清戦争も治まって四海波静かにという願いをこめてつけられたものと思う」と、伊藤房次郎、初代市長は「関の町誌」に述べている。

赤間町にある市営駐車場付近が、かつて鎮海楼のあった位置になる。呉服屋伊勢安の四、五軒先から階段を上がった小高い丘にあった。女郎屋のトップクラス、大阪屋の上のほうである。写真にも見えるが、鎮海楼の庭にあった大きな松の木はどこからでも目にでき、鎮海楼の松と呼ばれ、庶民から親しまれていた。

春帆楼とともに、いわば下関では別格の料亭。中に入れぬ庶民としては、せめて松にでも…といった気持があったのかもしれない。春帆楼が旅館としての要素を強くもっていたのに対し、鎮海楼はあくまで超高級料亭であった。当時の料亭の第一条件は、海峡が見えることにあったが、小高い丘に建つ鎮海楼は十分にその条件をそなえ、むしろ春帆楼より眺めは良かったという。伊藤博文が春帆楼でフクを食べた話はよく知られているが、もちろん鎮海楼でもその美味をたん能している。伊藤公の書画も部屋の中に飾られていたという。

テナー歌手·故藤原義江と親交のあつかった河村幸次郎さん、民芸品卸商は鎮海楼の思い出を次のように語ってくれた。「藤原義江の母親が、実はこの鎮海楼の仲居だったんです。彼女はよく芸者だった、と言われているが、いわゆる三味線仲居ですね。門司で働いていたリードと彼女が親しくなり、そして藤原義江が生まれたんです。リードは門司の勤めを終えて、よくうちの店(呉服屋)に立寄っていたようですが、その足で鎮海楼に酒をのみに通っていたんです」

一時は下関の迎賓館的な役割を果たした鎮海楼だったが、経営が二代目に移ってからはおかしくなってきた。二代目は、いわゆるボンボンで、道楽のかたわら劇作家にあこがれていて文化活動にもなかなか熱心だった。昭和の初めごろには東京·築地小劇場を初めて下関に連れてくるなどしたが、もう一つ活動は実を結ばなかった。

店もおもわしくなく、料亭経営は自分に向いていないと判断した二代目は昭和十年代に店をたたみ、上京していったのである。東京で劇作家自ざしていろいろと努力はしたようだが、ちょっと男前で金があるのがわざわいしてかもうひと踏んばりがなく、さらに気も弱かったりで悲願達成ならず、昭和二十年代なかばごろ、東京で他界したという。

鎮海楼のほうは戦災で建物は焼け崩れた。小高い丘も、その後の都市復興などで造成をくり返し、今は赤間市営駐車場となり、往時をしのぶものは跡形もなく消え去ってしまった。大きな松の木も、昔を知る人の記憶からほとんど忘れられてしまっている…。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

注: 幕末の大阪屋・対帆楼の後で、大阪屋・鎮海楼と名前を変えたのは経営者が代わったからのようだ。


春帆楼 フク料理公許第1号

明治二十年暮れ。西下のおりには春帆楼に遊んでいた伊藤博文が立寄ったときのことである。この日、関門近海は大しけだった。せっかく伊藤公が来られたのに魚がないのは恥だ、と春帆楼は四方に手をつくした。

しかし、どこを探しても、あるのは禁制のフクばかり。禁制とはいっても、その味は熟知している。何としてでも関門の海の幸をと意を決してさし出したところ「うん、こりゃうまい。一身よく百味の相をととのえ」と賛美、翌二十一年、秀吉のフク禁食令を解除し、ここに春帆楼のフク料理は「公許第一号」の印をもらったのである。

割烹旅館「春帆楼」。阿弥陀寺が廃寺となった跡に、大分県中津出身の眼科医藤野玄洋が幕末に建てたものである。最初は眼科病室だった。藤野は「治療も大事だが、環境のいいところで、心身の健康をはかるのも必要」と、患者のために浴室や庭園をつくり、滝まで設けるほどだった。

藤野の死後、妻みちはこれを改造して料理割烹を開業した。明治九年ごろのことである。海峡がすぐ下にあり、条件は申し分なし。藤野は生前、維新の志士らと交遊があったせいもあり、伊藤や山県公らの長州人をはじめ、新政府の高官が次々と利用、経営はたちまち軌道に乗った。

なかでも伊藤博文はこよなく愛した。フクの禁食令解除もしかりだが、春帆楼の名付け親でもあるという。「春に伊藤公が来楼のおり、目の前の海には帆船がいくつも並んでいた。その美しい景観から名付けられたと聞いております」とか。春帆楼の紋には、中央に船の帆が使われている。もっとも「かつて春帆楼は三棟あり、向って右を月波楼、左を風月楼、真ん中を春帆楼といっていた。その後、風月楼を三階建てに改築し、伊藤公が聴潮閣と命名した」という説もある。

いずれにしても、伊藤博文の春帆楼への熱の入れ方はなみなみならぬものがあり、明治二十八年三月二十日から春帆楼で始まった日清講和談判の会場選びに際しても長崎、広島尾道と候補地があげられていたが、伊藤自身が一週間前に突然「下関の春帆楼にて行う」と決定したいきさつがある。

清国全権大使、李鴻章は、この年三月四日午後四時半ごろ、会見の帰途引接寺への曲り角で狙撃された。事件後、表通りをさけて李鴻章らは宿舎の引接寺から春帆楼に通ずる細い間道を往復した。いわゆる「李鴻章道」だが、今はそれを知る人も少ない。昨年あたりから、この道一帯を観光ルートの一つにしては、との声もチラホラ出始めてはいるのだが…。

春帆楼の建物は戦災で全滅した。講和談判に使った記念品は事前に持出していたので、今も記念館に展示されているが、建物は昭和三十年に厚狭の武田要輔が再建、ほぼ昔の姿に復元した。四階建てである。その後、東洋観光興業(現在地産トーカン)が買取り現在に至っている。

再建後は、もっぱら大衆化への歩みをたどり始めたがそうは言っても「春帆楼」の名前、歴史の重みは随所に顔を出してくる。「営利事業だけに目を向ければ、格式を重んじることはマイナスになることが多い。しかし、ここの歴史は大事にしていかねばなりませんしね」と経営者。

一階を披露宴会場に、三階はバス·トイレつきの部屋に五十二年改造した。しかし、どんなに改造しても基本は決して変えない。変えられないのだ。昭和三十三年両陛下が宿舎とされたとき以来働いているという仲居頭の木下千里さんは言う…「 最近はお客さんも確かに大衆化しましたね。でも、宴会が始まっても、ここで騒いでいいのかって訊かれるお客さんもよくあります。お酒を飲んだら楽しむのが自然ですから、どうぞ、と言うんですけどね。嬉しいこと?そうですね、やはり仲居がキチッとしていると言われたときでしょうね。そんなときはいつも、これも伊藤公のおかげだと思うんです」

「日清講和の昔を偲び関門海峡車で通う馬関名所の春帆楼ソーレソレソレ」-春帆楼小唄。「晚涼や釣舟並ぶ楼の前」(杉田久女)  賑やかな春帆楼小唄も、海峡に届く前に、車の騒音にかき消されてしまいそうな昨今である。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



下関東郵便局 下関最古の洋館

「下関で最古の話を知っているか」と、ある郷土史家に訊ねられ、はしなくも、「サァー、領事館でしょう、やはり」と答えてひんしゅくを買ってしまった。

数次にわたる改修、特に二十八年前には外壁が全面的にモルタルで上塗りされてしまい、一見しただけではそう由緒ある建物には映らなくなったが、南部町の旧下関東郵便局(現·南部町郵便局)が実は下関で一番歴史のある洋館なのである。

山陽ホテルは明治三十六年、英国領事館は三十九年、秋田商会は大正五年の建設だが、この郵便局は明治三十三年十月、工費五万円で建てられた英国風洋館なのである。今の金に換算すると、ざっと五億円近くをかけた石造りのどっしりとした建築物だ。

当時としては文明開花ブームの先端をいった関の名物の一つで、この洋風局舎ができた当時は「関のモダンさだ」と、弁当持参の見物客もどっとくり出したほどだった。何しろ外壁の厚さが六十センチもあったというのだから、戦後になって次々に立ちはじめた、アメリカ式の薄っぺらな建物の中にあっても異彩を放つほどだった。下関郵便局は、初めは現在の商工会議所付近に木造二階建てとしてあったが、明治三十三年、現在地に初めての洋館として赤レンガ姿がお目見えした。

鉄道開通で馬関駅が誕生したのに伴い、西部地区も発展、駅前に下関郵便局細江支局として開設。ちょうど今の文化会館-婦人会館あたりにかけての場所だった。ここでの郵便取扱い量が激増したため西郵便局として独立、東と西の二つの郵便局ができたものの合併し、結局、南部町の局を下関東郵便局とした。下関郵便局のほうは昭和二十年三月の国道改修工事で、竹崎町の現在地に移転した。

下関の郵便局の古いエピソードの一つとして、ぜひふれておきたい話題がある。女流作家、平林たい子が十七、八歳のころ(大正十二年) 、阿弥陀寺町にあった三等郵便局に勤務していたことがある。東京で食べてゆけなくなり、夫の知人を頼って下関に来た。そこで得た仕事が「下関一大きい市場のそばにある三等郵便局の小包係」(自伝小説「砂漠の花」より)だったのである。もっとも、社会主義者としての検挙歴がすぐばれてしまい、そのまま下関を去って大連におちのびたりしているのだが…。

話を本筋に戻そう。この旧下関東郵便局舎が建てられた明治三十三年という年は、1900年。建築、設計の諸準備や当時の郵便事業の重要性といったことなども含め考えれば、まさに十九世紀の遺物とさえもいえる洋館なのである。それが唐戸に建ったという点も、下関の歩みをふりかえってみるとき、見逃すことはできない。

いま下関東局は、唐戸を抜いて下関第二の繁華街になったと地元が自負するニュ--タウン山の田の目抜き通りに移転してしまった。南部町特定郵便局と、格落ちしてとり残されたこの建物は、いったい何を象徴しているのか。薄っぺらなコンクリートでかつての重厚さが隠されてしまっただけに、この想いは一層つのってくる。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

(彦島のけしきより)