海峡の町有情 下関手さぐり日記、遊郭、呉服屋、銀行、デパート | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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先帝祭 紅葉の秋に女郎道中

この稲荷町に始まった女郎の街頭パレードは、当時京の都や江戸でも行われていたが、やはり関の女郎は別格だった。派手な道中こそしなかったものの、新暦四月二十四日には参拝がひっそりと続けられていた。こうして神事は祭りの形態をとるようになった、と伝えられている。

今と違って、女郎道中の太夫は本ものの女郎。赤間宮までの短い距離だが、沿道の二階家は客でいっぱい。ひいきの女郎にカネを投げると、女郎お付き人が手ぬぐいを放り上げた。桜の模様入り。太夫役の写真入り絵ハガキも売られたりした。維新の志士たちもここで遊んだことは有名である。

しかし、こうした稲荷町の苦労も女郎が三人にまで減ってしまっては断念せざるを得ない。昭和十年、とうとう打切られてしまった。それを聞いた新興の豊前田町、伝統ある女郎道中をやめるのは実に惜しいとばかり、桜ならぬ紅葉の秋に、豊前田から赤間宮のコースで、道中を堂々とやってのけたのである。

あとにも先にも、四月二十四日以外に女郎道中が行われたのはこの年だけだった。ちなみに、この年の手ぬぐいの柄は紅葉だった。郷土史家·佐藤治さんは今でもこれを大事に保存している。

当時、道中の沿道で丸いおこし米が売られていた。飴と一緒に米を玉状にふくらせ、食紅をつけて紙ヒモでつるしたものだが、実はこれは九州·直方の菓子屋が、地元の祭りがすんで余ったのを下関に回していたもの。

それでも菓子屋は毎年下関でボロもうけして、いつも女郎をあげて満足気に帰っていったという。「余りものに福あり」だが、このころから北九州にしてやられていたのだろうか。

戦争の激化に伴って道中は一時中断(参拝神事は紋付姿で続いていた)、終戦後は新地が行うようになり、現在のコースとなった。二十九年からは観光協会が主催しだし、いよいよ観光色が前面に出始めたのである。

三十三年売春防止法制定、遊廓は消えた。そこで太夫役はキャバレーのホステスにとって代った。店の宣伝になるというので、太夫になるのに随分と裏工作もあったとか。ともあれ、太夫の豪華な衣装は重さ三、四十キロはあり、さしものホステスも音をあげ、四十一年から舞踊協会のお嬢さん方、つまり現在の姿になったもの。

「天皇さんに女郎が参る」と沿道に赤いもうせんを敷きつめ、お得意さんを招待して酒をくみ交すといった光景は、今では見られなくなった。

この日は時化がちで、雨の降ったときは平家の涙雨、風が吹いたら平家怨霊のたたりじゃということから、関の先帝小倉の祇園雨が降らなきゃ風が吹く、と言われていたものが、いつのころからか風が吹く」は「金が降る」にとって代わられてしまった。

参考までに、民衆の知恵から生まれた言葉を一つ…
「先帝祭にイカを食べぬと体にうじがわく」 この頃はイカがシュンでうまいことをいったものだが「そこで、先帝祭をイカ祭り、とも呼んでいましたね」と、佐藤さんは教えてくれた。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)




先帝祭 関の女郎は関脇格

寿永四年陰暦三月二十四日、壇之浦の合戦で平家は亡び、安徳幼帝も二位尼とともに海峡に没した。翌年同日、一群の男女が阿弥陀寺に集まった。内には、悲運の幼帝をしのぶ煙が、ススリ泣くようにたちこめた…。この人目を避けた参拝こそ、今や下関の代表的祭りとなった先帝祭の始まりであった。

舞踊協会のお嬢さんたちが五人太夫に扮し、時代絵巻さながらにきらびやかな衣装をまとってくり広げる道中、参拝に向う赤間神宮天橋の周囲の見物客十五万人…    これが現代の上臈参拝である。

先帝祭の変遷を述べるには、教育ママさんにはお叱りを受けるかもしれないが、やはり「色街」の話から入っていかざるを得まい。

「紅葉(もみじ)という遊女がいた。先帝祭に参拝しての戻り、何かのいきさつがあって、あの高い木履(ぽっくり)を往来に投捨てて足袋はだしのまま、立派な着物を引きずりながらすたすたと帰ってきた。主人はびっくり仰天、とんで帰ってみると、何もいう暇もなく、衣装代として百両包みが差出してあったという。そのころの、はかない遊女の誇りでもあったろう」

昭和十四年刊行された「関の町誌」稲荷町の項に天明年間のエピソードとして紹介されている話だが、江戸時代初期の下関名所紹介の書物には女郎参拝は見られず、上﨟(昔は女郎)参拝が今のように賑やかなスタイルをとるようになったのは、江戸時代中後期ごろからと思われる。

現在、赤間町の一部となっている稲荷町に遊女が置かれるようになったのが壇之浦合戦の後。その後色街としての稲荷町は賑わい、元禄年間、藩が幕府に提出した報告書によると、稲荷町遊女数八十七人という。女郎屋はわずかでも「関の女郎」は全国的にその名をはせ、遙遊女番付でも関脇格を下らなかったとか。玉代が高かったのは言うまでもない。

しかし、江戸末期になると豊前田が栄えて稲荷町は衰退、復興策に打出してきたのが稲荷町歌舞伎であった。大阪屋二階で芝居(といっても形だけ)をし、客が役者を品定めして買うという具合。が、これもうまくいかずそこで登場したのが女郎の街頭パレードだったのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



呉服屋 西の菊新、東の伊勢安…

「西の菊新、東の伊勢安」…  これと、ほぼ中央に位置していた川半を称して、かつては”関の三大呉服屋"と呼んでいた。いずれも今はその大店はない。

伊勢安といえば、馬関きっての呉服屋の老舗。現在の赤間町、尼安の前の空地あたりがその所在地だった。伊勢安の前にはしょう油屋があり、明治二十年ごろには、東角に下関で初めての書店もオープンしている。郷土史家、佐藤治さんもこの店にはよく足を運んだ。

といっても、呉服というよりこの店の河村幸次郎さんが集めていたコレクション見たさである。河村さんは現在東京で輪入民芸品店「グラナダ」を経営、竹久夢二の絵を下関に寄贈したいと申し出て話題になった人である。

河村幸次郎さんの思い出に耳を傾けてみよう。

「今の領事館跡建物(考古館)が建つ前の英国領事館が店の前にあったころのことですが、イギリス人が店によく来て腰かけ、黒ビールを飲んでましたよ。近所の年寄りがこれを見て、しょう油を飲んでいるって騒いだものです。当時はビールなんて珍しかったんです。伊勢安は呉服だけでなく、ハクライ雑貨などいわゆる長崎物も扱っていました」

「テナー歌手·藤原義江が下関の思い出として晩年に話してましたね。子どものころ、父·リードに伊勢安で白絣を二反ほど買ってもらったことがある、それが父からのただ一つのプレゼントだったって」

佐藤さんは戦災で伊勢安がなくなったことより、むしろ貴重なコレクシ ョンが灰と化したほうが残念だったと語るが、河村さんも「確かにそうです。店に蔵が二つ、名池そばの自宅に絶対に燃えないとされた蔵が一つあったのですが、すべて焼けてしまった。自宅のほうは直撃をくらって蔵がさけてしまったほどです。

ここには高島北海のヨーロッパスケッチ百二十点をはじめ、各新聞の第一号、下関のカワラ版、珍しいコケシ二千本など色々ありました。図書館より安全だと言われて預けていた方も多かったから」と、同様に残念がる。

西の菊新は細江町にあった。ちょうど細江のカトリック教会の下のところ、現在公園の部分である。戦前、企業整備でこの呉服屋を閉めるに至るまで店を経営していた菊谷健太郎さんの話を聞いた。

「店の間口は七、八間(十三、四メートル)はあったでしょうね。今でいう従業員は十七、八人はおりました。扱ったのは呉服一本です。今と違って当時は階級意識がハッキリしてましたから、お客さんも層が分かれていましたよ。今はすべて中級化された感じだけど」

「伊勢安川半とだいたい同規模くらいじゃなかったでしょうか。別に競争意識なんてありませんでした。川半は南部から細江に途中で場所を変えました。確か、今の商工中金、下信本店付近です。それでもお互いのんびりしたものでしたね。世の中の景気が上向けば商売もよくなるといった風で、ま、景気まかせといった感じでしたね。もっとも、いわゆる生産程度は低かったけど」…

古き良き時代であった。昭和になって、今の労働会館の場所に山陽百貨店がオープンしたが「二階の一部に呉服屋もあったけど、影響があるというほどのものではありませんでした」まさに老舗、菊新である。

その菊新も戦災で焼失した。戦後、菊新再建を崣声もあったが、諸事情から菊谷さんは断念した。呉服屋、菊新の跡地にできた公園では、夏になると賑やかな町内盆踊り大会が開かれるようになっている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



下関信用金庫 関をのみこんだ彦島

彦島信用組合などと冒頭から切り出すと、そりゃ何かの間違いだろうなんて言われるかもしれないが、下関の信用組合を語るとき、この彦島組合はどうしても避けて通ることはできない。

彦島は古くから海士郷、福浦、迫、西山、竹の子島と五つの漁業組合があった。仲良くやればいいのだが、何しろ組合は五つあっても目ざす漁場は一つ。いつも争いごとが絶えなかった。しかし、いつまでもケンカしてもいかんと明治四十年、やっと五漁業組合の統合にこぎつけた。

これを契機に、組合員の生活安定をはかろうと設立されたのが彦島村信用組合だった。業績はきわめて順調に伸び続け、昭和十六年七月には貯金成績優秀なり、と全国信用組合協会から表彰されるまでになっている。

一方、下関のほうでは大正六年に下関信用組合が創業、産業組合法による市街地信用組合として業務を営んでいた。一時は組合員が千百七十人以上にも達したが、昭和二十三年に解散、その営業すべては彦島信用組合に譲渡されてしまった。

こと信用組合に関しては彦島が下関を呑み込んだ次第だが、この吸収によって彦島信用組合は名称を「関彦信用組合」と改め、事務所は下関に置いた。彦島が下関を吸収したのに、名称としては「関」を頭に置いているところなど、なかなか興味深い。

ともあれ、関彦信用組合は下関一円をそのエリアとしてこれ以降も飛躍的な発展をとげ、二十六年四月の信用金庫法の実施とともに名称も下関信用金庫と改称、本店は入江町交差点そばに堂々たる建物として腰を据えている。

このほか明治二十五年には岬之町物品問屋信用組合などもできた。問屋は扱っ商品の種類によって資金需要の期を異にする。一方の「遊金」を他方の有用な資金に充当すれば双方のプラスになり、これが町内規模で行われれば、やがては町全体の繁栄にもつながっていくという理論だが、五年後にはこのユニークな組合は解散のやむなきに至ってしまった。

地域き発展させていた北前船という根本要因に破たんをきたしてしまっては、どうにもも手のほどこしようがなかったのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



銀行 注目された三井の動き

昭和四十七年十一月、三井銀行下関支店が閉鎖したとき、下関の銀行史を知る人たちは一様に、古き良き時代の終焉を痛いほど思い知らされたのではないだろうか。

何しろ下関物品問屋の隆盛に目をつけ、わが国に「銀行」と名のついたものが設立される前から三井組下関出張店として銀行業務につき、明治九年の国立銀行条例改正に伴って一元銀行下関出張店と名称を定めた。下関の銀行第一号というだけでなく、三井は長崎、小倉、広島に三等出張店を置いたのに対し下関には一等出張店を配したのである。

明治末になって下関経済の衰微に伴って支店を廃止したが、第一次大戦が始まるとともに、下関では糖粉界が活況を呈してきたため、大正五年に門司支店下関出張所として再び店舗開設、二年後には支店に昇格させた。

観音崎町に堂々たる支店を新築した(現·山口銀行別館)が、昭和八年に店舗営業権をそっくり百十銀行(山銀の前身)に譲渡、再び引き揚げてしまった。しかし、三井は十年後、姿を変えて三たび登場してくる。国家的要請で第一銀行と三井が対等合併、昭和十八年帝国銀行き設立したが、三井がこのとき下関に店舗をもっていなかったことから、第一の支店は下関となったのである。

戦後の経済民主化で帝銀は旧第一系と旧三井系に分離、三井系は昭和二十三年十月に新帝銀下関支店として新たにスタート、二十九年に三井銀行下関支店と改称、ここに名実ともに三井銀行が三たび下関に現れたのである。

この時点までの下関での三井の動きは、そのまま下関の経済力の盛衰と歩調わせている。活況を呈すると登場、経営活動が衰えるとサーッと容赦なく引揚げていく。きわめて現実的な目でもって活動する銀行にしてみれば当然のことではあるが、下関の景況とここまで符丁を合わせられると、何ともやり切れない思いがする。

下関に一番初めにお目見えした銀行であるだけになおさらだが、実は、現時点では戦後あい次いで下関支店を閉鎖した都市銀行のなかで、最後までふんばってくれたのはこの三井銀行であった。

都市銀行の下関からの撤退は、まず三菱銀行が口火を切った。昭和十九年下関に支店を出した三菱は、当時その設立理由を「山口県の産業金融の中心地であると同時に、本邦鉱工業の重要地域である北九州に連係、西日本の表玄関である。西日本水産業基地として有名で、大漁業会社が多数所在し、その関連産業が盛んである。なお、彦島には三菱造船その他の大工場がある」(三菱銀行史)と述べている。

かつての下関をズバリ言い表しているようなものだが、その三菱は四十三年七月に支店を閉鎖、これに協和銀行(四十四年二月)三和銀行(同十一月)勧業銀行(四十五年八月、第一銀行と合併)と続き、三井が四十七年に下関から去って行くのである。

そのあとも続出するのではないかといった憶測も当時かなり流れたが、日銀下関支店では「もう絶対にない、とはもちろん言えないが、都市銀行の支店は改築するなどやっと落着いているところ。下関からの撤退はもう過去の話だし、あまり刺激しないように」との態度。

いつの日か四たび三井進出の日が果たしてやってくるのだろうか…。西南部町にある元第一銀行の建物(現·市有財産)は、大正九年の建設だが、ここに三井も第一銀行と合併した昭和十八年から二十三年まで入っていたことがある。そんな建物だが、市は撤去の方針 打ち出した。古き良き時代の下関がまた一つ消えていく。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



(写真は旧百十銀行本店)

銀行 日銀支店、全国二番目

銀行の建物というのはどこでも堂々としていてりっぱで、まことに小憎らしい限りである。何も今に始まったことではなく、これは銀行なるものが登場してからの、銀行としての一種の不文律のようなものかもしれない。

明治四十四年七月、西南部町に新築落成した百十銀行本店もまことに風格ある建物だった。英国風の赤レンガ造りで、建て面積は七百二十平方メートル建築費は当時の金で四万六千円だったという。清水建設の前身である清水店が建設にあたっている。場所は今の日本生命、明治生命あたり 百十銀行が建ったころは、すぐ裏(現·国道九号)は海峡の潮が足元にまで流れ込んでいた。

昭和二年の経済恐慌にも耐えた内容外観ともにしっかりしたものだったが、昭和八年に元三井銀行下関支店跡へ移転後、山陽百貨店の倉庫になったり、空襲にあったりして、市街区整理で姿を消してしまった。銀行そのものは十九年に他行と合併、今の山口銀行を設立した。百十銀行は、いわば山銀の前身ともいえるものだった。

下関の金融史をひもとくと、やはり明治から昭和初期にかけての下関の黄金時代を見せつけられる。北前船による諸国物産の集散市場、全市の一大見本市場化、日清戦争に際して兵站基地となったことによる異常な経済景況、数次の戦争によって権益を固めた満鮮方面への基地化、大正に入ってからの戦時ブームなどである。

当時の下関が交通、経済、金融的に、どんなに重要視されていたか。例えば大阪商船が開業とともに開設したのは大阪本社と馬関支店だけ。三井銀行が長崎、小倉、広島に三等出張店を置いたのに対し、下関には一等店を配置したこと。さらには日本銀行が全国で大阪に次いで二番目の支店を下関においたこと、などを紹介すればもう十分におわかりいただけると思う。

今、日銀下関支店は入江町にモダンな支店を構えているが、注目すべきはこの支店が全国で二番目だったこともさることながら、明治二十六年十月に開設した同支店の初代支店長が高橋是清だったことである。総裁兼首相をつとめたほか、田中、犬養、斎藤、岡田内閣の蔵相として、高橋財政をすすめ、昭和十一年、蔵相在任中に二·二六事件で青年将校たちの凶弾、凶刃に倒れた人物である。

支店は「西部支店」として下関に置かれたが、この開設に関して高橋は次のように述べている。「それまでの日銀は大阪に支店を有するのみで、他にはその設けがなかった…(中略)…そこで馬関に支店を設置することとし、同地にあった百十銀行の店舗を買収することとなった。

馬関はもと北国のいわゆる千石船が米穀または海産物を積んで回航してくるところで、当時非常に繁栄をきわめた船着き場であった。従って市内のおもな店舗は大てい船問屋の店舗だった…(中略)…十月一日をもっていよいよめでたく開業することになった。

当日は山口、福岡両県知事、九鉄社長、各地所在の銀行重役及び関門の紳士、紳商官公吏のおもだった人々を招待し、まず改造店舗の縦覧を請い、夜は春帆楼で開業披露の祝宴を催した」(高橋是清自伝)

大阪以西、西中国及び九州一円を管轄する支店だったが、明治二十一年、西部支店は門司に移された。大正六年に熊本支店が開設されるとともに西部支店は門司支店と改称、エリアも山口、福岡など五県に縮小、昭和十六年小倉に支店が設置され、門司の支店は"事務所"と名づけられるなど、その地位は著しく低下、結局二十二年十二月一日「下関支店」として日銀は下関に帰ってきた。

その日銀下関支店は言う…「下関は確かに昭和二十二年の開設だが、この支店の先祖は西部支店で、北九州とともにその流れをくんでいます。西部支店が今の北九、下関どちらの支店になるとは断定できないんじゃないですか。どちらも子孫なんですから」

下関支店のルーツはどこ?というわけだが、当時の資料によると「西部支店は門司に設置の計画だったが、適当な土地がなく、とりあえず赤間関に開設」とある。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)


商業・デパート シーモルはノアの方舟

戦後の下関の百貨店としては大丸の他に下関専門大店、協同組合下専デパート、又一百貨店などもあげられる。

又一百貨店は二十二年四月に竹崎町にオープンしたが、規模は小さなもので、その後は衣料品主体の店になった。協組,下専デパートは下関専門店会員中の有力者が出資、竹崎町につくったもので三十年十一月に店開き。これも四十年ごろ閉鎖している。

下関専門大店は、かつての下関機関車庫だった下関駅前に二十四年十二月中旬オープンした。有名専門店が入店、一施設の中でデパート式に売場を設けて営業を続けてきたが、シーモール下関に刺激されて大増改築、五十二年十二月、サンロードとして新装オープンした。

こうして下関のデパート変遷史をみてくると、名実ともにいわゆる百貨店と呼べるものは大丸しかなかった。しかし、駅西口に移転新築した三十四年当時は中国四国地区ナンバー1の規模だったこの大丸も、ここ数年は他都市からひょいと訪れた娘さんの目には「下関にはデパートあそこしかないの」と、冷たく突き放されるありさまだったのである。

五十二年十月オープンしたシーモールで装いき新たにした大丸が、今後、その魅力をどう生かしていくか、ここはじっと見守っていくしかないが、それにしても人口二十七万を数えるまでにふくれ上った県下最大の街、下関に、百貨店がたった一つしか育たなかったというのはどう理解したらいいのだろうか。

シーモール下関の下関商業開発·波田兼治専務は言う。「本来、デパートは商店と共存して立地するものだ。ところが下関は山が多く、また海がすぐそばまで迫っているという地形上の問題もあって、商店街が分散せざるを得なかった。もしこれらがうまく二つ、三つに集中しまとまったものを形成していたら、デパートはもっと意欲的に進出してきたろうと思う」

もう一つ、下関商業を語る場合、必ずといっていいほど登場する定説がある。「かつて北前船、あるいは大陸への門戸という立地条件の有利さから、下関の商売人は座って居ればメシが食えた。つまり、待ちの姿勢が非常に強かった。それに蓄えがあり金持ちだった。だから無理をしない。つまり投資するということをしなかった。これが下関商業の発展在大きく阻害してきた」(同·波田氏)

そうこうしているうちに下関は追いつめられてきた。このままでは北九州どころか福岡にまで客をとられてしまう…そんな危機感からここ一、二年、やっと商業界は活発な動きを見せてきた。その頂点にあるのがシーモール下関。口の悪い人に言なれば「あれは下関が目覚めたというより、追いつめられて逃げ場がなくなった、そのあげくに求めた、いわば下関商業のノアの方舟ですよ」となる。

いずれにしても、このシーモールオープンによって下関の商業がどのような方向に進んでいくか、五十三年はその真価を問われる年でもある。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



商業・デパート 駅周辺開発と大丸

下関駅周辺はかつて、下関のはずれの小さな集落だった。それが下関駅がここに移転されたのを皮切りに、相次ぐ埋立てなどで急速に発展してきたのである。漁業都市の中心部としての整備も要因の一つに数えられるが、もう一つ見落せないのは下関大丸の誕生だ。

昭和二十五年十一月一日、大和町の貿易ビルに大丸は店開きした。もともとこのビルは林兼産業がオフィスビルにしようと建設を進めていた。それを大洋漁業が大丸と共同出資、資本金五百万円の百貨店にすることを決め、急ぎデパート施設に切り替えたものである。

当時の下関はまだまだ小売商より卸商の盛んな都市だった。しかし、戦後復興のなかで、買物客に便宜を与えるような、つまり一カ所でまとまった買物ができるような施設を望む声が強く、こうした要望を受けて大洋は百貨店開設を決意したのである。

「百貨店らしきものがなかった下関に大丸が建つという噂が流れてからというもの、若い娘たちはここの店員になることに憧れ、競って応募したものです。そうですね、今で言えばスチュワーデスになるくらいの憧れでしたね」

高校卒業と同時に、この年、大丸に入社した元店員、桂敬子さん(下関市大学町)はそう回顧する。建物はもともと事務所用に建てられたもので、天井は低いし見かけも悪い。決して「これがデパートだ」と自慢できるものではなかった。戦後間もないことでもあり商品も少なく、冷房施設もないために夏ともなるとむし暑いことこの上ない。

扱う商品も「肌着が中心でしたね。上着類、特に背広など既製のものはなく、ほとんど布地販売。靴も品種はまるでありませんでしたよ」大丸第一期生として入社した塩田進営業部長の弁である。当時の営業時間は午前九時から午後五時半。いかにも朝の早い下関の百貨店だった。荒れた街路の中に水産会館、みなと劇場とともにデンと構えた大丸の、もう一つの名物は夜のネオン。当時としては、実に珍しいものであった。

三十四年二月一日、近代的装いも新たに大丸は駅西口に新築移転した。延べ面積一万六千三百平方メートル。今度は冷暖房も完備、当時としては中国、四国地区ではナンバー1の百貨店となった。このときに初めてエスカレーターも登場、馬関っ子をアッといわせた。

九州の大都市にはあったが下関では初めて。しかも下りエスカレーターは西日本地区ではどこにもなかったのである。動く階段…「これに乗る切符はどこで売っとるのかいな」と係員にたずねる人や、靴を脱いで乗る人たちが続出したという。もちろん係員はつきっきりのサービスだった。

この大丸の新店舗の登場は下関の商業地図を大きく塗り変えた。唐戸から細江と移った下関の商業中心地を完全に駅周辺に移したばかりでなく、駅の周囲そのものを名実ともに下関の中心部にのし上げたのである。シーモールへ移転後の大丸跡地利用に付近住民商店は強い関心を寄せているが、裏を返せば駅西口開発に、大丸がいかに大きな力を持っていたかの証左にほかならない。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



商業・デパート 時代とともに西へ

商店街の核たるデパートを都市の繁栄の一つのシンボルとして、明治・大正・昭和の下関のデパート変遷史をめくってみると、都市の繁栄は西へ、の言葉通りにまさに西へ西へと動いていることに気づく。

百貨店の前身ともいうべき「勧商埸」が最初にできたのは仲之町(当時は神宮司町)の万来館で、明治 九年のことだった。このあと唐戸、西南部、西之端あたりにでき、いずれも正札販売を行ったが、この中に割り込んできたのが他都市の百貨店出張販売だった。

下関での百貨店の出張販売のはしりは明治四十三年の高島屋だった。場所は岬之町。繊維類を中心にしていたが、その後もたびたび下関で商売、これを見て「下関はいける」とふんだのか、同じ大阪から松坂屋、三越も下関に出張販売にやってくるようになった。

さあ、こうなっては馬関商人の名がすたる。商工会議所は対抗策に百貨店廉売デーなるものを何度となく開催、そうこうするうちにこれが引金となって下関で初めて百貨店と名のついた「関西百貨店」が、大正元年に開業したのである。

関西百貨店の場所は元第一銀行支店の跡地。まだ銀行の建物はなかった。もともと百十銀行があったが、やや西寄りに新築移転したため、その跡に建てたもの。二階建てで、当時としては規模もかなりのもので、入口には噴水を設け、裏には食堂ができて和洋料理を食べさせたという。

開店当日は来客が三万人もあった、と当時の新聞は報じている。百貨店といっても、市内東部の商店主が各店の商品を募っただけで、十年後には店を閉めたが、その後昭和七年十一月、初めての本格的な百貨店,山陽百貨店が、当時の市内の唯一の繁華街、山陽の浜にオープンした。今の労働会館の建物がそうで、鉄筋コンクリート六階建て、延べ約二千五百平方メートル。

この超モダンな建物が姿を見せると、西細江町一帯に都市計画街路事業が進み、それまで荷馬車のためにホコリのまっていた荷揚げ場がなくなり、以来、この一帯は都市的な姿を現しだしたのである。二百人の従業員、エレベーターを備えた百貨店で、資本金十万円の株式組織。

しかし、実際は久野春之助一族の個人経営で、満州事変から最終的には第二次大戦へと、とめどなく広がった戦争とともに統制は強化し、取扱商品は少なくなるばかり。しかも近くの下関駅は竹崎町に移転するなどの外的要因も加わって、ついに昭和十九年、閉店に追い込まれた。建物は戦災をまぬがれ、三十一年十月、財団法人·下関労働会館として今日に至っているが、ここ二、三年のうちには、施設老朽化も限界だと取り壊される運命にある。

山陽百貨店に対抗するかのように、半年遅れて丸京デパートも旧下関駅の真正面にオープンした。構造はいささか粗末だったが中央に広場をとり、これが四階まで吹き抜けになり、一階は土産品がズラリと並んでいた。一時は市民の関心もさそったが、経営不振でわずか二年後には閉店し、建物は下関ホテルになった。

こうして唐戸から細江と西へ移ってきた百貨店も終戦を契機に、さらに西へと移行、戦前は場末といった感じしかなかった下関駅周辺の繁栄時代に突入していったのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



商工会議所 商都下関への愛着

田中町にある下関商工会議所、ロダーン美容室の二つの建物は、一見してそれとわかる戦前の建物である。ここは昔、西之端通りと呼ばれ、古き良き時代の下関の一つの顔でもあった。

現在、例えばシーモール下関のように、商業中心勢力が西部、つまり駅周辺に集中しつつあるのに、商工会議所が昔の姿のままがんとして「東」を動こうとしないのは、関の商人が昔の繁栄を忘れたくないという意地なのかもしれない。

商工会議所の前身、赤間関商法会議所が開設されたのは明治十三年。市制施行より役十年早く、全国でも東京、大阪に次ぐ古い歴史をもっている。事務所は東南部、西南部、観音崎と転々としたが、明治二十八年、現在地に総工費三千四百余円をかけて新屋舎を建造した。木造であったが、大正九年までの約二十年間ここで執務が続けられた。

この間、下関は海外貿易、遠近海漁業、銀行、会社、工場と、ありとあらゆる産業が発展していった。これと歩調を合わせるように、会議所の役割も大きくなっていったのである。大正九年、当時としては例をみない総工費二十二万円をかけた鉄筋コンクリート三階建てがお目見えした。まさに繁栄下関の象徴であった。

第二次大戦中、何度か米軍の攻撃で焼けそうになったこともあるが、兵隊が駐屯していて消火作業に当るなどで、何とか戦火をまぬがれて現在に至っている。天井の高さはいまも訪れる人を驚かせるが、建物自体にに老朽化が目立ち始めている。関の商人の愛着は以前にも増して強くなろうというものだ。

下関の商店街はこのところすっかり夜が早くなってしまったが、昭和十四年、中部幾次郎会頭時代に「本邦対大陸交通の要衝たる下関駅は時局の進展とともに益々旅客の殺到を来たし、殊に日満支経済提携により彼我の修交益々滋く之に伴う内外顕官知名士の往来絶へず 」の書き出しで、厚生大臣や県知事に閉店時間繰延べ特別地域指定を陳情している。

それによると、東京行最終列車の発車する午後十一時まで街は賑わうのに、商店法のため十時で閉店しなければならない。特別に深夜営業を認めてほしいというものだ。とても今では信じられないようなお話しである。

商工会議所の隣りは戦前、貝島クラブといい、シャレた事務所だった。貝島炭砿華やかなりし時代の従業員慰安所の性格をもち、紳士、淑女が出入りしていたという。そのレンガ造りの建物は、いまは美容院になっている。

経営者の三浦教子さんは「ここが由緒ある建物ということは知っています。貝島クラブ時代のこともうっすらと覚えてますね。大切に使ってゆきたいと、いつも思ってるんですよ」と話してくれた。そもそも、このレンガ造りの洋館は明治 年代に藤原義江の父リード(貿易商)が建てたものだともいわれている。

以後、貝島炭砿が第二次大戦が始まる前まで使い、戦時中は空家、戦後、日本生命下関支社、資生堂と主が代わり、いまのロダーン美容室が営業を開始したのは四十五年のことだった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

(彦島のけしきより)