海峡の町有情 下関手さぐり日記、海岸美 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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長関街道 のんびり乗合馬車

その昔、この一帯の海に面した道は美しい松並木だった。松の木々の間に、九州の山々が眺められた。源平の合戦、幕末の外艦砲撃の舞台として、わが国の歴史の1ページを飾る由緒ある場所であった。その歴史。海峡を行き交う帆船、蒸気船。そして下関東端の町、壇之浦を出れば前田村、豊浦郡長府町。付近には茶店なんてのもあって、実に楽しい道だった。

明治年間には、この道路下には団竹も茂っていたという。大正十年くらいまでは幅四メートルくらいのデコボコくねくねとした道で、海峡の潮が足もとを洗う個所すらあった。小学校高学年ともなると、下関の子どもたちの遠足に乃木神社の参拝もあり、そんなときは一日がかり、朝早く出発し、列をつくってこの長関街道を歩いた。道こそ狭いものの乗物らしいものはほとんどなく、景色を楽しみながらのんびりと、皆なそろって歌などうたい…懐しく思い出される人も多いことだろう。

電車が開通する前の数年間は、タクシーを改造したような乗合バスが運行していたが、それまでの数年間、この道を乗合馬車が走っていたことがある。向き合わせで六人乗り。原田の乗合馬車といって、長府侍町の原田薪炭屋から壇之浦までの間を走った。御者台の横には飼葉桶が何かしらわびしげに置かれ、松林をぬうように走った。

一日三往復か五往復くらいだったようだが、ちょうど「トーフ、トーフ」と、とうふ屋が使うようなラッパを鳴らしていたという。運賃は八銭だった。大正二年ごろには姿を消した。掲載の写真にちょっと見えにくいかもしれないが、電柱の陰にハッキリと乗合馬車が写っているのがわかる。

ついでながら、写真にある松は関門橋の橋塔のところ。このすぐ向いの甲(かぶと)山の麓に立石稲荷がある。橋塔そばの大岩がこの立石稲荷の御神体といわれ、源平合戦のおりに平家が京都伏見稲荷の分身としていただき、ここまで護って来たもので、平家一門とともに海に沈み、神霊だけがここに止まって海難の守護神になったという由来がある。社殿は山上に、御神体は海中にというわけだが、大岩にしめなわを祭るじめなわ神事は毎年十二月十日前後、海峡の冬の風物詩として今も続けられている。

今、この長関街道は国道九号、長関国道として市内では車にとって一番走りやすい道路とされ、七、八年前にはこの道路をうたった「シーサイドロード」なんて歌謡曲もできたりした。蛇足ながら、このレコードはさっぱり売れなかったようである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



壇之浦 姿一変した海岸美

壇之浦にて秋風の瀬戸を占めたいさり舟

俳句、童話文学で活躍、尾崎紅葉らと硯友社を興した巌谷小波は「其桃」創刊号(昭和七年)で、壇之浦をこううたった。

明治·大正の壇之浦の ようすはいったいどんなものだったのだろうか。作家·松松本清張が幼児期をここで過ごしたのはよく知られているが、同氏は「半生の記」(河出書房)の中で、壇之浦を次のように紹介している。

今は下関から長府に至る間は電車が通じているが、当時は海岸沿いに細い街道があるだけだった。(中略)  そこに一群の家が四、五軒街頭に並んで建っていた。裏はすぐ海になっているので、家の裏の半分は石垣からはみ出て海に打った杭の上に載っていた。

私の家は下関から長府に向って街道から二軒目の二階だった。旧壇之浦は今のみもすそ川あたり。火の山が近くにまで迫り、山崩れの際、母親に背負われて二階から海側の屋根伝いに逃げた騒動も紹介されている。

ここにどんな家が集まっていたのか。同氏はおぼろな記憶をたどりながら「うどん屋が一軒、人力車の溜り場が一軒のほかは船大工、漁師といった商売だった」と記している。

最近では、四十八年に壇之浦海岸部に建つ民家に貨物船が衝突、家半分を壊すという事故があったが、当時も暴風の夜など、船が家の支柱にぶつかって裏の掛け出し(海に突き出た台)を壊したり、激しい潮流のため漁船の難破も多かったりしたという。

清張の住んでいた家は今はない。大正十五年、壇之浦-松原間に電車が開通し、この道路整備のために立退きとなり田中町に移った。

同氏より一つ年上で、近所にいたことから十五、六歳まで「清(きよ)ちゃん」と呼んで親しく付き合っていたタバコ店経営、大枝貞雄さん(六九)上田中1丁目は「松本さんは絵と字がとても上手だった。ガラスに絵を描き、裁判劇などのストリーをつくって幻燈機のまねごとをして楽しませてもらったものです。小倉に移られしばらくして、直木三十五に上京 すすめられているがどうしようかな、と相談に来られたのはよく覚えています。もちろん私は、そりゃ才能があるんだからとすすめました」と、当時を懐しむ。大枝さんは昨年四月上京の際、十五年ぶりに旧交を温めた。

閑話休題。清張の家のあった付近は公園整備され、レストランが建ち、関門橋の橋塔がそびえ立つ。観光しものせきのメッカだ。松の並ぶ風光明美な海岸美こそ移り変わったが、東方海上に浮かぶ満珠干珠島へ アングルだけは、今も昔と変わらない。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



満珠・干珠 ロマン秘め、眠る島

長府東方海上に、寄りそうように浮かぶ島。満珠・干珠。伝統に満ちあふれた島。神聖な二つの島。その名は、神功皇后伝説から生まれた。

その昔、仲哀天皇·神功皇后が長府の地に豊浦の宮を置き、三韓征伐などの基地としていたときのことである。新羅が攻め寄せてきた。そこで皇后が一つの珠き投げると海は沖まで干あがっていった。新羅兵が船から下りて攻め込もうとするところへもう一つの宝珠を投げた。すると、海はたちまち満ちて行き、兵はおぼれ死んで敵軍は敗走して行った。このとき投げた珠が現在の満珠・干珠両島になった…如意珠説話である。

「沖は干る珠・地は満つる珠」つまり沖が干珠、手前が満珠という意味で、台帳にも明記されているが、地図に逆に記入されたりしていて、昔から満干論争の絶えないところ。しかし、いくらくり返してもニワトリが先か卵が先かと同じようなもので、今では沖が干珠、手前が満珠と地元では統一見解が出されている。

これなら伝説にも理論上かなうところで無理がなく、天然記念物指定時もこうなっていた。写真は明治末ごろの満干島だが、当時と比べると今のほうが、島全体がうっそうとしている。天然記念物指定以来、島を覆う暖地性植物などの樹林には斧も入れられず、原生林そのままに保存されてきたことなどによるものだろう。

そのロマンにあふれた美しい姿は、昔から多くの人たちの心 魅きつけてきた。足利尊氏は神社の豊浦宮法楽和歌に「いにしへの二つのたまの光こそくもらぬ神のこころなりけれ」のうたを奉納した。長府毛利第三代綢元公は「平津漁火」と題して「これもまたひとつの珠のしまかあさりいさりの影たえすみゆ」とうたった。

明治三十五年、明治天皇の下関行幸に際して乃木希典は次のような警詠んだ。「ほのぼのと白む波間 見渡せば珠の二た島浮き出づるかな」北原白秋も満珠島をうたった。「わたつみの潮満つ珠の照りわたるその島かけて波の寄る見ゆ」

海峡に二つの島が浮かぶ。それだけでも歌の題材にはもってこいなのだが、加えて伝説の島とあって詩心も刺激されずにはすまなかったのだろう。しかし、そんな島でとんだ"芸術心"を発揮した人たちがいる。つい六、七年前のこと、この島で、こともあろうにヌード撮影会が開催されたのである。

話はパーッと広がって、とうとう警察署まで乗出すしまつ。取調べのねらいは"公然わいせつ"モデル嬢があまりの環境にボーッとなったとか、カメラマンの求めに応じてついつい露出オーバーとなったとかどうとか…ともあれ、神社側では聖域を汚された、とカンカンになったものである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



西山海水浴場 白砂青松、天下一品

西山海水浴場は、今の老の山西侧一帯。彦島地区民の中にも最近はこう思い込んでいる人たちのほうが多くなってきたのではないだろうか。往時を知る人たちの記憶も、かなり薄くなってきている。それほどに彦島西山地区の海岸部は変貌著しいものがある。

五十一年五月に、三十三年ぶりに郷里へ帰ってきたラオスの山根良人さんも、この一帯の変わりように、思わず信じられないといった表情をしたものだった。彦島西山海水浴場は、現在埋立地となっている伊佐田(いさんだ)の浜の伊佐浦一帯にまで広がっていた。見渡す限りの海原。響灘に面した打石(うつし)の海浜で、玄海への碧海の眺めはまさに雄大そのもの、何のよどみもなかった。

磯浜は、白浜の上に青松がはるか遠くにまで並び、それこそ「美」の文字を具象化した海岸となっていた。夏ともなると、下関や門司だけでなく、小倉や若松方面からも納涼客が押しかけてきた。昭和に入ると、こうした客に備え、いわゆる海水浴施設も少しずつ整備されていった。伊佐浦の両端は岩場で磯遊びも楽しめ、これにはさまれた中央部は遠浅が続いて、当時を知る人たちの話では、まさに天下一品の海水浴場だったという。

ちょうど小瀬戸の潮流が手伝って潮の流れもよく、海水がこの入江によどむことがなかった。今でいう、水のきれいな海水浴場であった。西山の南西海岸一帯は、舞子島の景勝をはじめ、 (通称メガネ岩) 、テトリガンスの奇勝怪岩などもあり、彦島のなかでも比較的人工の変遷の少ない地方といわれてきた。

しかし、昭和十年代に入ると、この地区は大きな変貌をとげ始める。当時の三井鉱山(現在の三井金属)が、昭和十九年に西山海岸のうち、伊佐浦の埋立て許可をとり、石炭ガラによる埋立て工事を開始した。途中、燃料が石油に移るに従い工事が遅延、超ロングランとなった工事も五十二年二月、実に三十三年ぶりに約六万五千平方メートルの埋立て工事が完了したのである。こうして西山海水浴場は老の山側だけがこじんまりと残ったのである。

下関漁港の建設工事などで水門がつくられ、水の流れが変わってよどみが目立つようになった。一時の公害ブームで、この海水浴場は工場そばということで敬遠されていたこともある。最近、やっと海水浴客が戻ってきたが、昭和初年までの海浜の美と賑わいはもう二度とかえってくることはないだろう。

新しく出来上った土地は工業地域。今、ボウリング場、野球場、バレーボールコートなど工場の厚生施設などがつくられているが、大半は利用計画が決まっていない広大なあき地だ。子どもたちがここで野球をして遊んでいた。この子どもたちが伊佐田の名など知るよしもない。

ここがつい三十年前は海だったが知ってるかい?と聞くとウン、もっと沖のほうだろと、まるで相手にされなかった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



小門海峡 急潮名物の夜焚

大正年間の下関は、水産物の取誓高では世界屈指の数量 示していたにもかかわらず、漁港整備となると,まことにおそまつであった。漁船の停泊や荷役、あるいは魚の取扱い状況など、きわめて不経済だった。

ここで竹崎埋立て地の南端から西南に向って彦島埋立地に至る水面を埋立立て、小瀬戸水道を遮断、その水路を漁船の出入路.にしようとの計画が打出されたのである。つまり、名にし負う小門(おど)の瀬戸の急潮をストップさせようという計画である。埋立てる以前は9ノットから12ノットはあったといわれるほどの急潮だ。小門はかつてはよい漁場だった。なかでも、急潮にもまれた微生物から自然発生するといわれたカタクチイワシはよく獲れた。天下一品の味で、漁師の収入の王座を占めていたとまでいわれている。

急潮、好漁場という自然環境の中から生まれたのが小門の夜焚(4たき)である。馬関土産(宮崎勇熊著)の紹介文を読まさせてもらおう。

小門は市街の西端にあり、後ろには一帯の丘陵をめぐらし、前は一竿を横たうもなお達すべき小瀬戸の海を隔てて、彦島と相対す(中略)潮流上下し、その流れ最も急激にして、漁舟この間航するものはあたかも木棄の狂風に翻るが如し(中略)初夏の候より秋季に至る。即ち香魚上がるの時期をまって、漁人船頭に薪柴を焚き暗夜よく水底を照らし,魚を漁す舟は普通の漁船なれどやや小にして漁夫は概ね1隻に1人もしくは2人、その法は左手に櫂を操り、右手に網を携ヘ、舟の進退操縦自らこれをなし、よく水中の遊魚を見すまして捕う、その技術巧みなることに実に一驚(後略)  

船は大きな木をえぐった丸木船のような小型船。1.3mくらいのカイ 左手に、右手に網を持ち急潮に乗った魚が灯りに群ってきたところすくい取るのだ。水面から1m前後も下にいる魚を探すのも大変だが、両手をうまく使い分けるのも、漁師の特殊技能であった。これで獲れる魚はというと、タチウオ、タイ,チヌ、サヨリ、タコとあらゆる魚がおり、獲れたのをさっそく船上で調理、一杯やると、その味はまた格別なものであった。

漁船を隻借り切って、連れてきた華台にも魚を獲らせ、それを一緒に食って飲む。これが当時の遊び人のぜいたくだった。芸者の小遣いに百円出すのはザラだったともいう。当時の船員の給料が1カ月二十円ちょっと。「あれじゃ身代をつぶして当り前」と、そこらあたりの事情に詳しい下関の水産関係者は、はき捨てるように言ったものである。写真の後方に見える建物は梅園、観潤閣といった料理屋である。観潤が全盛のころは、稲荷町や裏町から人力車で芸者が送り込まれたほどだった。ちょうど今の小門造船の一帯である。

昭和四年、漁港工事に着手、翌五年に竹崎埋立て地ができた。そして十一年九月漁港水門(閘門)の通船式、翌十二年九月、小瀬戸の締切工事が完了、かつての急潮さかまく小門の瀬は、大漁港にと移り変わっていったのである。この工事によって、小門海峡の清い潮の流れは無くなり、夜焚も一切ダメになった。その代わりトロール船、手ぐり船が朝から晩まで通り、内海峡の景観を一変させてしまった。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



武久海水浴場 市内一の大賑わい

海に囲まれた下関だが、港としてぎから利用されたり潮流の瞿があったりして、いわゆる海水浴向きの海岸は少なかった。わが国に海水浴場がお目見えしたのは明治二十年とされているが、下関では大正十一年八月にオープンした武久海水浴場が第1号である。海に面していたとはいうものの,海水浴レジャーとしての海に親しんだのは、全国的には随分連れをとっていたようだ。

武久海岸は、海岸線こそそう長くはなかったが、初心者でも結構楽しめる海岸だった。ここの海水浴場化に当っては市もわずかながら補助金 出しており、松林の中に遊園地も設け、無料脱衣場、休憩所、あるいは公衆電話、医療従事者までおくという現代の海水浴場より、考えようによっては充実したものとしてオープンした。

海水浴場第一号に武久が選ばれたのは、他に都市中心部に近いという立地条件、あるいは磯回りが釣に適していることなどが指摘されているが、ともかく、この武久海水浴場は戦前まで、市内ただ一つの海のレジャー地として大いに賑わったものであった。松林などは日本一といわれ、海に流れ込む武久川ではホタル狩り、納涼花火大会映画会といった催しも盛んに行われていたという。

下関市入江町·下関郷土会会員、前田喜代人さんもこの海水浴場は忘れられない。「思い出?多いですよ。四十歳以上の者なら、一度や二度はここで泳いでいるはず。海岸そばで水もわき、井戸も簡単につくれました。沖合に大岩があって、ちょっと泳いで恰好の休憩場所になっていました。六連島と武久海岸の遠泳も毎年ありましたね。よく覚えていないが、速い人は二十分か三十分で泳ぎ切っていた。その頃は武久川もきれいで、川エビがいくらでもすくえたし、素人でもシーズンともなるとハゼがおもしろいように獲れましてね」

市民だけでなく、小倉や門司からも船でどっとくり出したほど人気のあった海水浴場。むし暑い夜など「サア武久へ!」が合言葉になっていたほどでもある。前田さんなど、竹崎の自宅からせっせと歩いて武久まで通っていたというから、よほどの魅力だったのだろう。当時彦島に住んでいた市議、松下栄太郎さんも日本水産の従業員を連れて、夜などよくこの海水浴場へ行った。

二十歳過ぎくらいからかな。当時は綾羅木海水浴場なんてなかったし、あの松林が独特の風情があったから。と懐しむ。しかし、戦争激化に伴って、松の根から油を採取するといって立並んだ松き次々に切り倒すなどで海岸は荒れる一方。半面、交通の便が良くなって綾羅木、安岡、吉見などに海水浴客は流れ武久海水浴場は三年前完全に閉鎖された。

綾羅木なども年々客が減少、今、下関の代表的な海水浴場は北浦のはずれ吉母にとって代わられた。武久川も往時の面影は完全に消え失せ、梅雨シーズンになると,要注意河川で名を売っている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)



関門海峡 底に眠る歴史の流れ

関門海峡は下関の顔である。下関が、歴史の回転するひとふしごとに決まって登場してきたのなら、まさに海峡が主役であった。源平の合戦、幕末の英米仏蘭の四国連合艦隊による砲撃、さらには第二次大戦末期の米軍による五千個と推定される機雷投下。

日本の経済活動をマヒさせるためにバラまいたものだが、日本沿岸に投下された全機雷数が一万一千個余りというから、半数近くがこの海峡に落とされた勘定になる。海峡の重要さをいかに米軍が認識していたのか、改めて目を見張らされるが、終戦後も船の触雷事故は続発し"海峡の戦後"は久しく続いたのである。

寿永四年、海峡に入水した安徳幼帝は、三種の神器の一つ、宝剣(草薙の剣)とともに沈み'剣はそのまば眠っている-こんな発想で、最近では長谷川修氏が「古代史推理」で述べ、赤江瀑氏も「草薙剣は沈んだ」で小説化している。同じく海底に沈んだまま眠るものでも、機雷と違って、こちらは昨年から話題となっている金塊ともども、壮大なロマンがあるではないか。

その海峡の底に鉄道トンネル、国道トンネルが走り、五十年初めには新幹線の突っ走る新関門トンネルも完成した。その上には下関市制がスタートしたころから話の出ていた橋も、四十八年十一月、関門橋としてお目見えした。関門の大動脈。地元の強い期待とは裏腹に通過都市に拍車をかけ、観光の呈として脚光を浴びた関門橋も、橋の観光寿命は短しの定説通り、すでに一歩も二歩も後退している。

だが、海峡に巨大な影を落とすこの橋は,地元民にとってはまったく別の感慨があるのだ。関門海峡にに橋をかけようという声は、まず、日清戦争勝利利記念にどうかと地元新聞社説に登場した。戦争中も検討されたが、敵機の絶好の標的となるからと見送られた。戦争で登場し、戦争中であるがゆえに見送られた関門の橋が、いま海峡を見おろしている-。「だから、私は海峡にかかるこの橋は平和のシンボルだと理解しているんです」午後同人で「関門海峡百話」の著者·清水唯夫さんのこの想いは深まる一方なのである。

春の海終日のたりのたりかなしかし、海峡はそんな世界にひたりきること許してくれない。突然さざ波打つてとうとうと流れ出す。東流西流、時速8ノットの急潮だ。じっと眠っているかのようにふるまい、突如走り出す。それが海峡の顔であり、下関の履歴書でもあった。そろそろ下関の胎動の時機とするのは早計だろうか。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)

(彦島のけしきより)