下関の引接寺でキリシタン大名が誕生した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関の地でキリシタン大名の誕生!(それは驚きの連続だった!)。毛利秀包、下関神父館(引接寺)で洗礼・結婚。

天正14年(1586)黒田官兵衛の求めにより、輝元は下関・山口・伊予三か所に神父館を建設する許可を与えた。宣教師2名の駐在を許可している。

下関の神父館が紅石山付近(市史)であり、引接寺境内付近と考えられる(下関カトリック教会)。

天正15年7月、太閤帰洛の時、秀包は九州攻めの戦功により久留米城主として筑後3郡7万5千石の地行地を与えられた。また、秀吉の命により大友宗麟の娘(7女)孝(桂)子(マゼンシア)を娶っている。

この神父館で洗礼を受けたのが秀包、シマオ・フィンデナオ。秀包は戦国武将には珍しく生涯妻一人であった。戦国時代に堂崎の渡し前にそびえる美しい修道院と神父館で、秀包と孝(桂)子の結婚式が行われた。

ヴァリニャーノ 著『日本巡察記』に「山口の街、伊予の国および下関の港に、非常に立派な修道院と司祭館が建てられ、その成果が大いに期待されたが、関白殿(秀吉)の迫害のために、建築が完了してまもなく破壊されてしまった」と記載されている。



引接寺、下関市中之町11−9


参考

① 下関市の引接寺は隠れキリシタンの教会だった(参考)

② 引接寺のキリシタン灯籠(参考)

③ 明治維新の功労者、入江和作は隠れキリシタンだった(参考)

④ 引接寺は、日清戦争後の下関講和会議での清国代表の李鴻章の宿舎、江戸時代の朝鮮通信使の宿舎だった他、平安時代末期の外国使節接待の為の臨海館であった(参考)