維新の功労者の入江和作は隠れキリシタンだった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関の入江和作は長州藩の内訌戦における正義派に多額の戦費を寄付、高杉晋作の四国への逃亡資金の提供、坂本龍馬の受け入れ、そして野村望東尼を匿うなどで有名である。しかし、白石正一郎の様な日記などが無く、彼の出自、功績など詳細は分からない。

ところが、明治初期の彼の行動から推測するに彼は隠れキリシタンであったようだ!すなわち、明治初期は攘夷思想の名残りから隠れキリシタンやキリスト教信者は弾圧されたが、彼はキリスト教信者としてキリスト教を庇護して下関教会の設立に貢献し、それが元か行方知れずの最後となった。また、入江家の墓所は浄土宗の引接寺にあるが、この寺は隠れキリシタンゆかりの寺といわれている。

さらに、キリスト教に基づく女子教育機関として創立した現在の下関の梅光学院の創立時のスポンサーでもあった。

彼が長州藩の倒幕運動に大貢献した背景として、キリスト教を弾圧した徳川幕府を倒し、信教の自由を勝ち取る狙いがあったと推測される。


参考

① 高杉晋作らを助けた下関の豪商(参考)、入江 和作  いりえ わさく

1833(天保4)年~1905(明治38)年

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1833(天保4)年、豊前国企救郡(現 福岡県北九州市)片野村蔵田家の次男、嘉永5年、入江家の養子となりました。入江家は下関の西ノ端(現 下関市南部町)で栄えた商人の奈良屋一門で、和作は酢の醸造業「奈良屋」(通称酢奈良屋)を営み、大年寄もつとめた豪商でした。

和作はさまざまな志士たちを支えたことで知られます。1863(文久3)年、高杉晋作が「奇兵隊」の本陣を阿弥陀寺(現 赤間神宮)に移した際、晋作が宿舎としたのは和作の屋敷でした。1864(元治元)年、晋作が当時の藩政府の実権を握る人々の打倒を目指して決起した際には、和作はお金を提供して支援。翌年、晋作が四国へ亡命した際には、和作が旅費を用意して支えます。

また1865(慶応元)年、「薩長盟約」締結に向けて動いていた坂本龍馬が下関に来た際には、和作は龍馬の訪問を受けています。そして1865(慶応2)年、晋作の恩人で福岡藩によって姫島に幽囚されていた野村望東尼が晋作から頼まれた人々によって救出された際、和作は望東尼を下関でかくまいました。

志士らを物心両面から支えた和作。1905(明治38)年に亡くなりました。


② 入江和作(参考)

坂本龍馬は、薩長和解の道を探るため慶応元年(1865)閏5月1日長州に入る。長州藩士小田村素太郎(のち 楫取素彦かとりもとひこ)の指示で最初に訪ねたのが、西の端町の入江和作宅であった。

入江家は西の端で酢の醸造を営む豪商で、屋号は奈良屋(酢奈良屋)。和作は勤皇の志が篤く幕末の志士たちを援助した。特に高杉晋作には物心両面から手厚い援助をした。住居の世話や「おうの」の面倒もみた。

晋作が 元治元年げんじがんねん(1864)12月15日夜、長府ちょうふ の 功山寺こうざんじ で決起した際は、多額の軍資金を提供した。そのため、晋作への支援を禁じる藩の役人に追われて、夜の海に飛び込んで難を逃れたという。のち勤皇女性の 野村望東尼のむらぼうとうにが「大正義の町人」と絶賛している。また晋作の依頼で、奇兵隊士が姫島の獄から救出した望東尼を かくまっている。

以前は入江家の裏は入江になっており、明治27年(1894)から埋立工事が行われ、唐戸町からとちょうが誕生した。


③ 入江和作邸跡

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唐戸、西の端バス停あたり


④ 墓所、浄土宗引接寺(いんじょうじ)

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入江家墓

入江家先祖代々之墓
明治三十九年八月十八日建
明治三年己龍集三月廿七日
顕證院即譽善住慈生大姉
入江和作多々羅嘉茂室
  
寛永十七庚辰九年廿一日
道譽心柳善榮信士
養誉心覺妙安信女
寛文二壬寅九月初九日

この二基の裏に25基ほど、集められている。


注: 伊藤家墓所の一部は入江家墓所の隣にあるが、その他大部分と伊藤九三は空月庵の方にある。

注: 引接寺(浄土宗)は隠れキリシタンゆかりの寺であった(参考)、、、キリシタン灯籠を探して見た(参考)


⑤ 功山寺決起後の内訌戦の為の資金(参考)

高杉晋作は山口の大庄屋、吉富藤兵衛から軍資金500両を入手。その他、この時点までに入江和作2000両、林算九郎250両などを得ている。この後日かも知れないが、長府藩の家老、三吉周亮は内密に3000両の公金と銃器を渡している。


⑥ 金子みすゞが勤めた上山文英堂本店が出店していた商品館の跡は現在の山口銀行下関ビジネス・サポートプラザの建つ地ですが、奈良屋はそこから東の交差点を挟んで赤間町までの敷地を誇る大豪邸でした。

和作は晋作の愛妾、うの(お・うの)の養父だったとも言われていますが、明治前期、キリスト教信者だったことで弾圧を受け、行方知らずとなっています(参考)


⑦ 入江和作はキリスト教の牧師を援助して下関教会を作った(wikiより)

青山 昇三郎(あおやま しょうざぶろう、1843年2月2日天保14年1月4日) - 1918年大正7年)2月22日)は、明治時代の伝道者、牧師である。山口伝道・福岡伝道の中心的な人物とされる。

1843年、三河岡崎藩の山路家に生まれる。1854年に青山家の養子になり、1956年に家督相続する。1863年に長男彦太郎(後のルーテル教会牧師)が生まれる。

1868年鳥羽・伏見の戦いに出兵するが敗北する。明治維新後は石油ランプや捕鯨業をしようとして失敗する。漢文聖書を手に入れて、キリスト教のことを学ぶために東京に移住する。東京ではアメリカ合衆国長老教会宣教師デイヴィッド・タムソンの元でタムソン塾の塾生として学ぶ。1874年に東京の新栄教会でタムソン宣教師より、母と妻と共に洗礼を受ける。1877年には東京一致神学校の一期生にとして学ぶ。同期に植村正久井深梶之助三浦徹瀬川浅服部章蔵などがいる。1879年に按手礼を受けて牧師になる。

家族と共に下関で伝道を始める。キリスト教の偏見が強く定住することも難しかったが、赤間関市の有力者入江和作と出会ったことで大きく変化した。その年の9月に日本基督一致教会の中会で、赤間関教会設立の嘆願をだし、承認された下関教会を設立する。1879年クリスマスの日に赤間関日本基督一致教会(現・日本基督教団下関教会)が設立された。この後、山口、長府、萩、徳山、岩国、柳井、宇部、下関彦島などで教会を形成した。その後、福岡県柳河に伝道し1880年柳河一致教会を設立する。更に、羽大塚、久留米、大牟田、若津、大川などで伝道活動を展開し、福岡伝道のパイオニアになった。

1881年7月、日本一致基督教会の西部中会が設立された。ヘンリー・スタウトの長崎一致教会と青山の柳河一致教会とアメリカ長老教会の宣教師が設立した下関教会の三教会で構成された。 


⑧ キリスト教に基づく女子教育機関として開校された現在の下関の梅光学院の創立のスポンサーが入江和作であった(参考)