功山寺の決起は危険な賭けだったのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高杉晋作の功山寺の決起(元治元年12月15日深夜又は16日明方4時頃?)の前後1ヶ月の主な出来事を長州征討に関する最新のwikiとブログなどをまとめ、その評価と分析を行う。参考文献が記載されていないが、他の資料、ブログ、ウェブなどと矛盾が無く、さらに詳細化されている。


その結果

①元治元年12月11日に西郷は下関に来ているとしたwiki、ブログ、ウェブは辻褄が合い、新たな知見が得られた。最近、日付は異なるが山口県の公式見解として西郷南洲と高杉晋作は会談したと発表していた。

②元治元年12月15日の功山寺の決起の目的は、征長軍が解兵した後の翌年1月2日の正式決起までの間に実行力をつけるための予備決起である。征長軍を刺激しない程度の小規模なものである。功山寺の決起の日時が12月15日深夜となったのは、五卿の九州移転の決心を待ったためである。

翌年1月14日の五卿の九州への移転の時点では俗論派を封じ込め、幕府に対抗出来る兵力を確立するのために、早めに決起した。例えば軍資金や食糧、兵員などの確保など防長二州の百姓への協力要請、事前調整を行っている。12月18日の時点で既に2000人の同志が得られている。また12月27日の時点で、例えば吉富藤兵衛から500両、入江和作からは2000両、林算九郎から250両などを借りている。この後かも知れないが、長府藩の家老、三吉宗亮も3000両の公金と銃器を渡した。

征長軍の解兵前に内訌戦情報が征長軍側に漏れたら攻め込まれる恐れがあるが、西郷南洲は知らん顔で広島と小倉を行き来している。ついには、1月4日、征長軍の解兵完了前に鹿児島へ帰っている。

③以上より、元治元年12月15日の決起は12月11日に西郷南洲と高杉晋作が阿吽の呼吸で信頼しあったから出来る。と確信出来る。征長軍との交渉は長府藩が決起後も続けた。

また、世論が正義派を支持して、萩政庁俗論派のみが敵の内訌戦は初めから勝つことを前提とした様なスケジュールになっている。

事実、1月2日の時点の兵員数では俗論派2000人に対し正義派は急激に膨らみ3000人を見込まれ、1月14日に五卿を見送った高杉晋作は遊撃隊500人と一緒に移動し、1月15日に大田の諸隊に合流し、追加人夫1700人の支援もあり、余裕を見せて戦っている。

正義派が勝利した後、3月の諸隊再編時には萩藩総定員約1500人として整理し、その他は解散させた。別に長府藩報国隊200人などがある。来る四境戦争時には4000人規模となる。(慶応元年閏5月21日付け「諸隊へ百姓町人無断入隊改て取締の事」という通達が出されているくらい、入隊希望は十分有る。)

④また、下に示すwikiとは異なる別のブログにあるが、藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、僧侶、釈月性の遺志をついだ浄土真宗(当時、一向宗と呼ばれた)の僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを武士、百姓に説いて廻ったことの意義は大きい。さらに、他藩においても同様に長州正義派を支持する世論工作活動があり、後の四境戦争の時など幕府軍の後陣で一揆などがあったことを指摘する。また、四境戦争時、藩は「長防士民合議書」を36万部、各戸に配布して意思統一したが、読み聞かせる僧侶などの存在が不可欠である。

功山寺の決起は賭けではなかった!

理由
1  功山寺の決起は予備決起
2  西郷南洲と高杉晋作は会っている
3  世論は正義派の味方であった

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wikiを元にイベントを時系列に示す:
()内は著者が追加

元治元年1864年
(10月21日、諸隊解散命令下るが、無視。)

11月1日、高杉晋作、九州に渡る。10日に大庭伝七と共に野村望東尼のもとに身を寄せる。

11月4日、征長総督の命令により岩国へ入った西郷南洲は吉川経幹と会談。

2日前に、吉川経幹は総督府へ禁門の変で上京した三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放の降伏条件で開戦を猶予するよう請願していた。

七名は刑死したため、
・山口城の取り壊し
・毛利藩主自筆の謝罪状提出
・五卿を長州藩から他藩に移す事
の三条件を以て征長軍を解くこととなった。

だが、最後の「五卿動座」は難航が予想され、早川勇は長州を何度も訪れて「薩長和解と五卿の筑前藩預かり」を説いて説得に当る。長州藩系諸隊士は猛反発したが、長府藩は乗り気で11月23、25、26日も交渉している。

11月17日、五卿は長府の功山寺に入る。諸隊750人が警備。(15日に山口を出た。諸隊の軍資金、食糧は萩政庁俗論派からは出ないので、多くの百姓などの支持者からであろう。駐屯地も長府、下関周辺の支持者の寺院が提供された。)

11月23日、長府藩士の報国隊が結成された。

(11月24日、奇兵隊総管(督)赤禰武人、時山直八他に附属二人と共に諸隊解散令撤回の目的をもって萩に出張。)

11月25日、高杉晋作は筑前藩の早川勇と九州より下関へ帰った。長府で即時挙兵を説いたが山縣を含めた諸隊は同調しなかった。大庭伝七邸に滞在。

12月1日、福岡藩の越智小平太、真藤登、喜多岡(北岡)勇平が長府の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かると申し入れ。

12月3日、福岡藩の月形洗蔵が五卿の一人、三条実美と面会。

12月4日、中岡慎太郎は西郷南洲と小倉で会見。

12月5日、長州藩より総督府へ藩主親子からの謝罪文書が提出された。

12月8日、奇兵隊総督の赤禰武人は萩より長府へ帰り、萩政庁と諸隊の調和により事態を転回させる調和論<正邪混和説>を説いたが諸隊の多くは賛同せず。

12月11日、西郷南洲は吉井幸輔や税所篤と共に下関に渡り五卿の附士の土方久元・中岡慎太郎・長州藩諸隊長と会見、征長軍解兵後、五卿を福岡に移す妥協案を出して同意を得る。

その折、西郷南洲と高杉晋作が固い握手をしたと言われている。(赤間関稲荷町大阪屋対帆楼会談、長州側の証言や資料は無いが、筑前、薩摩、土佐各藩、公家に証言者がある。12月28日になるが、長府藩家老の三吉周亮によると、翌年1月1日に西郷南洲の希望により高杉晋作と下関で会談することを依頼され、斡旋した。と語った。)

その後、西郷南洲は広島に向い征長総督に解兵を建議。

12月13日夜、高杉晋作は諸隊幹部に決起を促すが、皆に躊躇される。

12月15日、決起の直前に、五卿が筑前に移ることを容認した。これで決起の条件がととのった。

12月15日深夜、大雪の中、長府に集まった高杉晋作と力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)は功山寺に赴いて五卿に面会、その後下関に入り、萩藩新地会所を襲撃、抵抗なく制圧後そのまま支持者である大坪の浄土真宗本願寺派の了円寺に駐屯。三田尻港の同志の軍艦3隻のみを萩に進め、俗論派を牽制する。(決起隊は野久留米街道、旧山陽道を走り萩藩新地会所を襲撃、高杉晋作は1月2日まで此処にとどまる。海路移動の説もある。新地会所の襲撃には200人加わった「林家家内行事録」。最新2016.4.20の研究では住吉神社を経由した(参考))

12月18日、諸隊は伊佐へ出陣。(この時点で2000人の同志を得る。)

12月19日、征長軍は山口城の取り壊しを形式的に確認。城では無いと見なしてくれた。

同日、萩の正義派7人が処刑される。(初代長州藩海軍総督、丙辰丸艦長、松島 剛蔵が含まれる。楫取素彦は弟。6日後、清水清太郎切腹、周布政之助は9月下旬に既に自害)

12月20、25日長府藩士らが小倉で会談し、五卿の渡海意識の確認、高杉晋作の決起状況は然したる問題でないと説明した。

12月22日、 力士隊の一部29人が俗論派に寝返るなど、調略活動が活発化している。

12月27日、征長軍は解兵令を発す。

同日、高杉晋作は山口の大庄屋、吉富藤兵衛から軍資金500両を入手。その他、この時点までに入江和作2000両、林算九郎250両などを得ている。この後日かも知れないが、長府藩の家老、三吉周亮は内密に3000両の公金と銃器を渡している。

12月28日、西郷南洲は広島より小倉に向かう。

同日、三吉周亮は小倉に出頭、西郷南洲から高杉晋作との会談の斡旋依頼を受けた。

同日、俗論派、絵堂に進軍。

慶応元年1865年
1月1日、西郷南洲と高杉晋作が長府藩士の仲介で下関、旅宿伊勢屋(極楽寺付近)で会談(参考)。

1月2日、高杉晋作は遊撃隊ほか集古、壮士、農兵、好義、盤石の五隊と下関から再決起し、萩藩新地会所を襲い檄文を掲げる。(この檄文には御国民を安撫すると百姓に呼びかけている。赤禰武人は下関脱走。この時点で3000人の同志となった。ちなみに俗論派は2000人)

1月4日、西郷南洲、小倉から鹿児島へ。

1月6日、伊佐にいた諸隊は絵堂に入り討伐軍を襲撃、南下して大田に布陣。

1月10日、高杉晋作、下関で中岡慎太郎と会う。

1月12日、大田市之進の御盾隊も小郡から大田へ。

1月14日、五卿は功山寺を出発し、下関滞在を経て九州にわたる。中岡慎太郎が随従する。

同時に高杉晋作は遊撃隊500人を率い下関を発つ。

1月15日、高杉晋作は大田に諸隊に合流。内訌戦が本格化する。(前線基地の金麗社も支持者が提供。人夫1700人を追加援助。死者、正義派17人、俗論派22人)

1月19日、諸隊は山口に向け進軍。

1月23日、征長軍の解兵完了。

2月12日、五卿は太宰府、延寿王院へと動座された。中岡慎太郎も五卿に随った。

2月14日、椋梨藤太は萩より逃亡したが津和野で捕縛された。長州藩の内訌戦は正義派の勝利に終わった。


参考





長府藩家老の三吉周亮によると、慶応元年1月1日に西郷南洲と高杉晋作を下関、旅宿伊勢屋(極楽寺付近)で会談させた。と語った。
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol240/web/omoyama.php
(山口県の公式見解)

12月15日の五卿と長府藩士の活動は、特別展、薩長盟約と下関、長府藩士と龍馬・慎太郎のキセキ、2012を参照

決起時の人数200は、「林家家内行事録」、P107、東行庵発行、高杉晋作と奇兵隊、平成元年発行、にある。

東光寺、功山寺の決起の時、高杉晋作と伊藤博文が遊撃隊、力士隊と共に了円寺に駐屯したが、応募してくる新入隊士の為に手狭になり、この寺にも分宿した。







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