広津藤吉と木暮さん(昭和20年代)
木暮実千代は、梅光女学院初代学院長·広津藤吉に舞台役者になるように勧められた。この写真は東京で2人が再会した際のものだと思われる。
「木暮実千代と梅光女学院の精神」
下関出身の映画女優、舞台俳優である木暮実千代が梅光女学院に入学したのは昭和五年であり、卒業は同十三年である。卒業後、日本大学法文学部芸術学科に入学し、同十三年七月に江の島縁起ページェントの弁天役を務めた。それが松竹の目にとまり、日大在学のまま入社し「愛染かつら」の看護婦役でデビューしたのがきっかけとなり、戦前戦後の活躍へと花開いた。
将来、大女優となる片鱗を見せたのは在学中からで、卒業前のお芝居で坪内逍遥の「桐一葉」をプロデュースし、主役の淀君を演じている。当時の院長·広津藤吉から「和田さん(本名和田つま)、あなたは舞台の役者になりなさい」と言われたと、木暮実千代自身が昭和五十年の母校の講演会で語っている。時代物の衣装をかりるために単身、篭寅組に乗り込んで大親分にかけあったという逸話が残されている。
同じ講演のなかで、終戦直後の有楽町で三人の靴磨きの少年にほとんど無意識のうちにお金を渡し、それが縁でその少年たちとのちに再会し、立派に自立する姿を見守っていることが語られている。その少年の一人、伊藤幸男を助けた品川博の児童養護施設「鐘のなる丘」の後援会長を十八年間務め、物心両面の援助を続けた。
契機となった靴磨きの少年への行為をこう語っている。「梅光時代、クリスマスの時に献金したり、プレゼントをしたりしたことが無意識のうちに少年たちへの寄付行為になったのでしょう。これは梅光の生徒であったとき、洗礼を受けたということがそれをしたんですね。どこか潜在意識があってしたことだけのことですが、ここに立派な木が立ったということは、私の一生の中で何かそういうことは思ってもなかなかできないことができていることで、本当に私にとって忘れえぬ出会いなのです。」と。
木暮実千代は梅光の奉仕の精神が生んだ大輪の一つである。《岡崎新太郎》
(保存版「ふるさと下関」よ)(彦島のけしきより)
参考