浄土真宗のお経を訳した鳩摩羅什は原日本語を喋っていたかも知れない! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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現代日本仏教の浄土真宗の漢訳教典の仏説阿弥陀経鳩摩羅什がサンスクリット語から漢語に翻訳したものである。

この鳩摩羅什の父親はインド人であるが、母親が古代中国の亀茲国の国王の妹であった。亀茲国は羌族と同族の大月氏の末裔が作った国であった。そして、五胡十六国の争乱期の5世紀初めの長安で仏教教典を翻訳したが、羌族の建てた後秦の王の姚興が鳩摩羅什の高名を知っていたので、401年に鳩摩羅什を長安に国師の礼をもって迎えたのであった。

すなわち、鳩摩羅什の母方が縄文人と同族の羌族であったことになる。ひょっとすると、原日本語を喋ることも出来たかも知れない。

キジル石窟の入り口前の広場に最近建てられた鳩摩羅什の象(wikiより)


雑談1

鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット語での名前のクマーラジーヴァを漢字の呉音で表したものである。まさに、ある種の万葉仮名が日本国外にもあったことになる。


雑談2

 亀茲国の言語は、wikiではインド・ヨーロッパ語族の中でも孤立した特異な言語のクチャ語とされている。亀茲国は羌族と同族の大月氏の末裔が作った国ではあったが、東西文化の両方の影響を受けて西方の言語を公用語的に使用していたのかも知れない。



雑談3


秦の始皇帝の末裔は中国大陸西域の新疆ウイグル自治区あたりからも日本に渡来してきており、秦氏の王、弓月の君にゆかりの弓月城が現在もある(参考)。


赤矢印: 亀茲国の場所、黄矢印: 弓月城の場所



雑談4


インドからわざわざお経を持ち帰って漢訳した玄奘三蔵についても、彼の母は大唐帝国の宰相殷開山の娘で、殷温嬌またの名を満堂嬌と言った。殷王族の末裔が殷を姓にしている(wikiより)。殷人は羌族と同族で、縄文人と同じくY染色体ハプログループ Dである(参考)。



雑談5


中国浄土教の善導大師の出生地は泗州夏丘県あるいは、青州臨淄県であり、仏教を広めた北魏のあった地域に含まれ、やはり原日本語を喋ったようだ(参考)。



参考

① 鳩摩羅什/クマーラジーヴァ

世界史の窓(参考)

西域の亀茲で生まれ父はインド人。大乗仏教を学び、高僧として知られていた。五胡十六国の争乱期の5世紀初めに、長安で多くの仏典を翻訳しで、中国仏教の発展の基礎を築いた。

くまらじゅう、とよむ。4世紀の末に、シルクロードを通って西域から中国に渡り、仏教を伝えた渡来僧。その名クマーラジーヴァを漢訳して鳩摩羅什と表記する。タリム盆地の小国亀茲(クチャ)国にうまれた。父はインド人、母は亀茲国王の妹だった。7歳で出家し、9歳でインドに渡り仏教を学び、大乗仏教を修めた傑僧として知られていた。

五胡十六国の争乱に翻弄される

五胡の一つ氐の建国した前秦苻堅は、将軍呂光を派遣して西域諸国を平定しようとしたが、亀茲を占領したとき、鳩摩羅什の高名を聞き、長安に連行するよう命じた。384年、呂光は鳩摩羅什を伴い敦煌まで戻ったが、そのときすでに苻堅は淝水の戦いで大敗し、前秦も崩壊寸前になっていた。そこで呂光は涼州にとどまり後涼国を建てた。鳩摩羅什もそのまま17年間、涼州に幽閉される形で留まった。

長安で仏典を翻訳

羌人の建てた後秦の王の姚興(ようきょう)は鳩摩羅什の高名を知っていたので、後涼を攻めて滅ぼし、401年に鳩摩羅什を長安に国師の礼をもって迎えた。こうして鳩摩羅什は、五胡十六国時代の前秦・後涼・後秦という華北の王朝が交替する中で翻弄され、ようやく長安で仏典の漢訳と説教につとめることとなった。鳩摩羅什の翻訳した経典は『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』などの大乗仏典をはじめ、ナーガールジュナ(竜樹)の『中論』などの多数にのぼり、これによって中国仏教の基礎が築かれたということができる。

鳩摩羅什の没年ははっきりしないが、おそらく409~413年の間と思われ、現在、西安の郊外の草堂寺に唐代に建てられた高さ2.33m、八面十三層の墓塔がある。また涼州(現在の甘粛省武威市)にも唐代に作られたという八面十二層の舎利塔がある。

Episode 語学の大天才-鳩摩羅什

インドでサンスクリット語を修めた鳩摩羅什は亀茲に戻り、さらに西域諸国のことばをマスターした。しかし亀茲国が五胡の一つ前秦の苻堅によって征服され、鳩摩羅什は涼州に移った。そこで17年間幽閉されたが、その間に漢語をマスターしたらしい。サンスクリット、西域の諸語、漢語に通じ、語学の天才として知られるようになった。

401年、後秦王によって長安に迎えられてから仏教経典の翻訳を開始、『法華経』『阿弥陀経』などの経典や大乗仏教の理論書の多数を漢訳した。それ以前にも経典の漢訳は行われていたが、鳩摩羅什の訳は正確・流麗であったので中国仏教にとって画期的な事業であった。もっとも僧侶としては女性スキャンダルなどもあり、自らの経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に言っているそうだ。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫 p.32-36>


② 亀茲は大月氏(wikiより)

新たに新疆で出土したウイグル語訳の『慈恩伝』の中に、焉耆亀茲を大月氏の遺留部族と記した箇所が見つかったこと、敦煌文書の『西天路竟』で焉耆が月氏と記されていた。


③ 大月氏は縄文人と同族で原日本語を喋っていたようだ(参考)


大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。



④ 日本語の起源(参考)


秦や羌族がY染色体ハプログループDで、原日本語を喋っていた。



⑤ 羌族とは(参考)、、、少数民族のチャン族の祖先で、縄文人と同族でY染色体ハプログループDを持っている。



⑥ 亀茲国の言語と文字(wikiより)


インド・ヨーロッパ語族の中でも孤立した特異な言語とされている。