遣唐使が停止した後に取り残された殷人の末裔の運命 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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唐は殷人の末裔が支配する国であった。そして、遣唐使が往復して、殷人の末裔達、すなわち渡来人達を日本列島に連れ帰っていた。

しかしながら、唐が弱体化し、894年の遣唐使を停止して直後に唐は滅んでしまった。全員が日本に渡りきって居れば良いが、残念ながら少なくない殷人の末裔が残留していた。

実は、彼らは契丹と言う騎馬民族の国を唐の北に作っており、次いで遼、西遼を建国し、アジアの東西にまたがって活躍した。しかしながら、漢民族、満州人、トルコ系諸民族、或いはモンゴル人などに飲み込まれてしまったようだ。

それでも、ロシア人は、これも中国王朝の一つとみなし、中国そのものを「契丹=Китай(キタイ)」と呼ぶ。この名前が転訛した「カセイ(キャセイ、Cathay)」が香港の世界的航空会社の社名になっている。

中国は現在、世界的にはチャイナ(CHINA、支那、秦)と呼ばれるが、キャセイと共に殷人(縄文人)の末裔が作った国であったことになる。日本人は彼らの同族であり、内心、自慢したくなる。


参考

① 「契丹」は何処に行ったのか

research map 諫早庸一の研究ブログ(参考)

Michal Biran, "The Mongols and Nomadic Identity: the Case of the Kitans in China," in Nomads as Agents of Cultural Change: The Mongols and Their Eurasian Predecessors, edited by Reuven Amitai & Michal Biran, pp. 152–181 (Honolul: University of Hawaii Press, 2015) 

この論文は「モンゴル・インパクト」のなかでも最大のものの1つであったユーラシア草原のエスニシティとアイデンティティ(分かったような、分からないようなカタカナですが…)の変革を、「契丹」を事例として考えるというもの。モンゴル帝国の政策の帰結として、「契丹」は最終的に "sinicization" (う~ん、もちろん「中国化」ですが、この文脈だと「漢化」か?しかし漢民族のエスニシティをめぐる問題は複雑で…)していきます。モンゴル帝国による再編は、ユーラシアのエスニシティに甚大な変化をもたらし、従来の遊牧部族が消え、新たな集団が興ったり、定住社会に吸収されていたりしました。この論文は、この非常に重要かつ興味をそそるものでありながらも、これまで徹底的な分析にはさらされてこなかったこの現象に光を当てるものなのです(p. 152)。ただ、「日本の論壇」においては(また一括りに!)、少なくともモンゴル帝国による遊牧諸集団の再編とその帰結は、それこそどなたが先駆かは不明にして知らないのですが――どなたか教えてください!――早期から注目され、相当な研究蓄積があったりはするのですが。。もちろん定住社会に吸収されていく「契丹」の事例研究はこれまでほぼない、というかビランさんにしかできなかったでしょうが…。

そもそも「契丹」とはなんぞやということなのですが、これは4世紀以降にモンゴル草原の周縁地域を活動地域としていた遊牧集団の名であり、特に10世紀に阿保機(治世907–926年)の下で強盛となり、遼王朝を打ち立てたことで歴史にその名を残します(907–1125年)。王朝の滅亡後も王族の一部は西方へ逃れ、中央アジアから西アジアにまたがる西遼(1132–1218年)を建て、モンゴルの侵攻前夜にはかなりの影響圏を有していました。その影響は言語の面にも及び、モンゴル語で北中国を意味するKitadや、中世ヨーロッパで西・中央アジアをも内包する「遥かなる東方」としての中国を指すCathayも、この遼王朝の母体となったエスニック集団から来ています(ついでに言えばロシア語で中国を意味するКитайもここから来ています)(p. 154)。

モンゴルの侵攻後、「契丹」は漢地に留まっていた者も西方に逃れた者も、その大部分が抵抗少なくモンゴルに帰順し、モンゴルに極めて近い遊牧集団ながら、漢語や漢文化に通じていた彼らは、ウイグルと並んで「仲介者」としてモンゴルに重宝されます。そして、支配の中枢に地位を見出した彼らは、モンゴル帝国の支配層を構成する広義の「モンゴル」のなかに自らを位置付けていくのです(この場合の「モンゴル」は何かという問題については例えば、杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社, 2003年)341–362頁)(p. 164)。しかし、支配が長期化・恒常化し、それぞれの定住社会で旧来の支配構造を基層としてそのうえにモンゴルの支配が乗る帝国構造が確立すると、契丹の当初のraison d'êtreであった「仲介者」としての役割は次第に後景へと退いていきます(pp. 166–167)。さらに、ウイグルとは違いその軍事力をモンゴルに重視されていた契丹は帝国の軍事編成のなかで、様々な地域の部隊へと振り分けられます。そのなかで彼らが特に存在感を示したのが漢地の領域でした。部族的紐帯を断たれ、漢地に入植した契丹は漢人姓を名乗り出すなど、急速に「漢人化」していきます。名高い――かつpolemicな!――帝国の四分類のなかでも「色目人」に分類されたウイグルなどとは異なり、契丹はあくまでその下の「漢人」だったのです(p. 169)。ゆるやかな遊牧集団であった契丹は、帝国化することでその紐帯を強め、モンゴル帝国というより大きな帝国に組み込まれるなかで「モンゴル化」の時期を経て、最終的には「漢化」していくことになります。こうした”エスニシティ”(諫早よ、この語を分かって使っているのか!)の変遷が鮮やかに描かれているのがこの作品です。


② 契丹(wikiより)


契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qìdān)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。

契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になる考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった(庫莫奚)ともつながりがあり、ともに4世紀半ばに前燕慕容皝に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。

日本語でカタイという言葉はCathayという英語になった契丹を語源とするCataiのことで、東方見聞録の頃に西洋人が考えた中国北部を言う。これに対し中国南部はマンジ (Manji) と呼ばれる。

契丹は唐が滅びてから世に出てくる


③ 契丹の勢力範囲(九州国立博物館、参考)



④ 契丹・・・これまた謎の多い国

猫宮とらお日記(参考)


1125年、契丹(遼)は、その北側に勃興した女真人(女直ともいう)の金国に滅ぼされた。
元来尚武の気風を持つ遊牧民族であったが、支那封建王朝の制度を200年近く続けた「漢化」と、当初武力で圧倒した宋から「歳幣(平和維持費)」として毎年支払わせた多額の財貨に支配層が堕落して、斯かる結果となった。

このとき、当時、現在の内蒙古辺りにいて難を逃れた契丹王族(ヤルート氏)の一員、耶律大石(タイシ)は数百騎の部下を従え西方に脱出した。

契丹の領土は、現在の遼寧省・吉林省から内蒙古自治区から山西省・陝西省そしてモンゴル国辺りに広がっていたが、彼らは約3,000km以上を移動し、現在のキルギスのトクマク近郊だったとされる、カラハン王国の首都「ベラサグン」まで落ちのびたのである。
最初は僅かだった家来らも、ここまで来た時には数万規模まで増えていた。これは大石の人望・リーダーシップによるものと思われる。

さて、カラハン王朝(カラ=黒い・または強い。ハン=王者)とは現在支那が実効支配しているウィグル自治区から隣国のキルギス・カザフスタン・ウズベキスタン一帯を支配するイスラム国家であったが、大石が辿り着いた時点では東西に分裂し、互いに険悪な関係になっていた。

しかも東カラハン国に反抗するテュルク(トルコ)系諸民族の反乱が頻発していた。大石は先ずこれらテュルク人を破って、東カラハン王の信頼を得てから突然、都のベラサグンを占領する。そして、ベラサグンを「グズオルド」と改称し、1132年、此処を再興した契丹の首都とした。早い話が離れた場所での自国再興のための乗っ取りに成功したのである。固定した領土の概念を持たない遊牧騎馬民族の気風故か。

ともあれ、漢人はこれを本来の金に滅ぼされた契丹(遼)と区別するため「西遼」と呼んだ。イスラム諸国人は「カラ・キタイ」と呼んだ。そして、更に大石は西を目指した。1137年、大石は西カラハン王国の軍を破ってこれを臣従させた。
大石の率いる人数からいって、完全に征服するのは困難であり、かつて東方で少数の契丹人が多くの漢人を支配した如く、間接統治に依らざるを得なかった模様である。

1143年、大石は方向を東に転じ、かつての契丹旧領を奪回すべく軍を起こすも行軍中に死去し、東征で旧領奪回は頓挫してしまう。

その後、彼の息子そして孫と三代続くが、孫の耶律直魯古(ヤルート・チルク)は至って凡庸というか暗君であったようである。娘婿に迎え入れた「クチュルク」なる男に散々国政を掻き回された挙句、反乱を起こされ弱体化。折角先々代の大石が手懐けたイスラム諸民族に対し、クチュルクは強圧を持って臨んだ。そうこうしているうちに、金の更に北方に興ったモンゴル軍に攻め込まれ、1218年に呆気なく滅んだ。僅か86年の出来事であった。

渤海(高句麗人+靺鞨人)→遼(契丹人)→金(女真人)→元(モンゴル人)と有為転変してきたのであった。

なお、「契丹人」と云うのはその後の歴史に登場しない。支那の本土にいた契丹人は漢人に、西域ではカザフ人・ウィグル人・ウズベキ人等トルコ系諸民族に、或いは大モンゴルに其々飲み込まれてしまったと思われる。

モンゴル人もそうだが、元々人口的に然程多くはいなかったと思われる。ただ、一つの名残として支那人には珍しい二文字姓の中に「耶律」は極少数だが現存する。

耶律大石(支那のサイトから無断転用・多分想像上の絵)


大石自身は仏教徒あるいはマニ教徒であったとされるが、彼の配下の中には一定数のキリスト教徒(景教徒)がいたと思われる。

彼が西方に進出し、イスラム諸民族の軍を散々に打ち破った情報が西欧まで流れた。

時の西欧人は大石を「プレスター・ジョン」と思い込んだ模様であった。プレスター・ジョンとは伝説である。曰く、遥か東方にもキリスト教の国があって、ジョンとは、その国の王であり司祭である。ジョンの軍は勇猛精悍で、やがては我々西欧のキリスト教国を悩ましている中東のイスラム系諸国を散々に打ち破ってくれるだろう・・・という願望が伝説化したものである。

僅か90年足らずの王朝であったが、一時期は現在のウズベキスタンからカザフスタン、キルギスに中共が実効支配している東トルキスタン(新疆)まで含めた広大な地域を征服したその勢いに、ロシア人は、これも支那王朝の一つと見做し、支那そのものを「契丹=Китай(キタイ)」と、今もそう呼ぶ。

更にこれの転訛した謂いである「カセイ(キャセイ)」が世界的航空会社の社名にもなっている。まさに「名を残した」と云うことだ。


⑤ 鮮卑や契丹は縄文人と同族の殷人の末裔で原日本語を喋っていた(参考)。


⑥ 日本語の起源(参考)、、、東アジアで広く喋られていた。


⑦ 唐の末期まで継続した遣唐使は、縄文人の同族である殷人の末裔だった唐の支配層と民衆を日本に連れ帰った(参考)。


⑧ 日本語の起源と契丹古伝、、、契丹では原日本語が喋られていた。