楊貴妃の里の向津具半島は中国大陸から見て向こうの国だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県長門市に向津具(むかつく)半島がある。「むかつく」なんて、変な名前と誰もが思う!油谷湾南岸の粟野・伊上よりは向こうの津だから向津(むこうつ)と言うようになった??と言う安易な解釈もある。

しかし、この辺りから南の北浦海岸は対馬海流の関係で、中国大陸からの渡海・上陸には適した地であり、事実、近くの肥中(ひじゅう)港などは大内氏の海外貿易などで栄えた歴史がある。

先に答えを言ってしまえば、中国大陸から見て向こうの国、または向こうの津(港)と呼ばれ、現在の向津具になったのでは!?

神功皇后は、この地を向津野大済(むかつのおおわたり)と呼んだが、大済(おおわたり)とは「大きな渡し」と言う意味で、国際港的な意味であろう。また、楊貴妃伝説では、この辺りを唐渡口と呼んだが、博多港によく似た名前の跡地があり、唐からの渡し場であった。

ところで、日本書紀で神功皇后は、ここ向津野大済を東門の護りとなし、北九州市戸畑区の北端の名護屋崎(日本製鐵の敷地内、参考)を名護屋大済として西門の護りとなすとされた。すなわち、戸畑区から向津具半島までの南北の海岸線(北浦海岸)が、中国大陸からの渡来人達の上陸地であったのであろう。(注: 東西が90度左回転している。魏志倭人伝との関係がありそうだ。参考)

楊貴妃の里と向津具半島

赤丸: 向津具半島、緑丸: 名護屋崎(戸畑区の日本製鐵敷地内)、青丸: 北浦海岸


雑談

北浦海岸では、渡来系弥生人骨の土井ヶ浜遺跡が有名であるが、多くの遺跡があり、中国大陸由来の土器なども出土している。また、唐から帰国した空海の上陸の伝説があるが、最澄は長門国に上陸したとの文書がある。江戸時代まで海外との密貿易の港もあり、大内氏、阿川毛利氏などが従事していた。


参考
 
① 向津具(むかつく)の由来(参考)

山口県長門市油谷向津具

・地名の由来は、「和名抄」郷名に向国(むかつくに)、中世には向津荘・向津奥荘・向徳などと見え、向国の「に」が省略されて向津具になったものであろうという。また、「むこうつ」ともいわれて、油谷湾南岸の粟野・伊上よりは向こうの津だから向津(むこうつ)と言うようになったという。【出典



② 向津具半島の唐渡口(とうどくち、参考)


長門市の向津具半島の楊貴妃伝説では、楊貴妃は死なずに海を渡って川尻岬の西海岸に漂着した。この地を唐渡口と呼んでいる。



③ 渡唐口跡・鏡天満宮

YAKA navi(参考)

中洲川端エリア


博多は、古くから海外との貿易を行い繁栄してきた商人の町。中世の博多は、今よりずっと海が内陸に入り込み、大きな船が接岸できた。

渡唐口には、大陸と行き来した船が接岸し、貿易で財を成し得た商人・博多豪商が生まれ、博多の街を闊歩していた。遣唐使もここから旅立った。

また、鏡天満宮は、延喜元年(九〇一年)讒言によって太宰府の権帥に左遷配所された菅原道真公が、 博多に上陸した際の御休息の時、「海路の疲れにおやつれ給ひし御相顔を鏡に映して御覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社である。

INFORMATION
住所
福岡市博多区下川端3 博多川際


④ 済について(ウィクショナリーより)



⑤ 日本書紀では向津具半島を向津野大済(むかつのおおわたり)、また北九州市戸畑区の名護屋崎を名護屋大済(なごやのおおわたり)とした