北九州市戸畑区の今昔 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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北九州市戸畑区は北九州工業地帯の中央、新日本製鉄の工場用地埋め立て工事で劇的に拡大した。

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中央が北九州市戸畑区

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現在の戸畑駅と若戸大橋

昭和30年代の戸畑駅

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昭和39年の戸畑駅と若戸大橋

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若戸大橋と若戸渡船

若戸大橋(昭和37年、北九州思い出写真館より)

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建設中の若戸大橋と若戸渡船

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古の若戸渡船(若松から戸畑方向)

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昭和25年(1950年)の北九州と戸畑市


参考

① 戸畑の由来(参考)

☆「とばた」という地名は、万葉集、巻十二に、
霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪乃 屢君乎 将見因毛鴨「ほととぎす  とばたのうらに  しくなみの  しばしばきみを みむよしもがも」と、うたわれていますし、筑前風土記にも「鳥旗」の地名が洞海湾の入り口にあったことが記されています。

現在の戸畑という地名は、慶長年間の筑前古図の中に「戸畑村」として登場しており明治の初期までは美しいはぜの木が点在する田園と白砂青松が続く浜辺の、半農半漁の一寒村でした。

明治中期以降、近代産業が発達するにつれ、工業地帯へとかわり、いまでは鉄工を中心に北九州の工業の中核的な地区になっております。☆
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又、碑文の左に、モダンアート協会会員・日本美術家協会会員、古野耕作氏の“戸畑提灯山笠”の絵も添えられています。
   
ついでながら、戸畑は日本書紀に「名護屋」と著されています。
(720年)また、万葉集には4.500首以上の和歌が編纂されており、現在の北九州市を詠んだものが6首ありますが、碑文の歌もそのひとつです。

万葉の昔、門司の大里から小倉にかけての海岸は企救の長浜、あるいは高浜と呼ばれ、洞の海(洞海湾)の戸畑側の海岸は飛幡の浦と呼ばれていました。白砂の海岸に美しい松が連なり、“遠の朝廷”大宰府への道を往来する、貴人・防人・旅人の心を慰めたにちがいありません。打ち寄せる波や松風の音を聞きながら、それらに思いを託し歌を詠んだのでしょう。


② 江戸時代の遠賀郡戸畑村

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この戸畑村より東は中原村、この中原村と戸畑村が合併して戸畑村となる。


③ 中原村(wikiより)

かつてこの地は筑前国豊前国の国境であり、「千畳敷」と呼ばれた広大な草原が広がっていたことから「中原」と名づけられたとされる。この平原は「小沢見野」(おぞみの)とも呼ばれ、「小杜若」という周辺にない植物が自生していたという。海岸には福岡藩によって松が植えられ、藍島白島を望む風光明媚な景勝地であった。この海沿いの平原で、人々は農業や牛の放牧などをして暮らしていた。

しかし筑前側(遠賀郡、時代によって乙丸触、小石触、蜑住触、修多羅触に属した)にも豊前側(企救郡、今村手永に属した)にも「中原村」があり、境界が曖昧であったことからこの地はたびたび福岡、小倉両藩の国境紛争の材料(論地)となった。そこで福岡藩の郡奉行と小倉藩の郡代が博多で会談を行い、その結果境川と地域を通る古道を両藩の境界とすること、豊前側から筑前側に相手の領地に入って草刈りなどを行うときは通行料を納めることなどが決定されたが、その後も時折トラブルがあったという。

その後、筑前側の中原村は1889年(明治22年)4月1日に町村制施行により、遠賀郡戸畑村と合併し戸畑村の大字「中原」となった(その後戸畑町→戸畑市→北九州市戸畑区となる)。豊前側の中原村は企救郡中井村の一部となる。


北九州思い出写真館より
中原発電所(昭和30年)


④ 唐舟打ち払いの堺鼻番所と境川(参考)

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昭和25年の境鼻と境川

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境鼻(櫓山の北側山麓)と境川

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境川下流、関門海峡方向

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豊前国と筑前国の国境碑

江戸時代の18世紀の初め、長崎における対外貿易は輸入超過となり、金銀の流失を防ぐため、幕府は長崎での中国貿易の金額や船数を制限しました。輸入品の利益が大きいため、北九州沖に密貿易船が現れました。北九州沖は、西廻り・内海・長崎航路の交差点であり、大小の島が多く、小倉・福岡藩の境界に当たり、沖合いの島々は密貿易船の隠れ場となりました。漂流する中国密貿易船に日本の密貿易船が近づき、海上で取引が行われました。小倉藩は1715(正徳5)年、葛葉(門司区)海岸に遠見番所を設け、翌年1716(正徳6)年、藍島・馬島(小倉北区)遠見番所を建設し、監視を強めました。福岡藩は1640年頃には岩屋・脇ノ浦(若松区)に遠見番所を置いていました。事態を重視した幕府は、小倉藩、福岡藩に加えて長州藩の三藩に唐船の追い払いを命じました。

1721(享保6)年、藍島遠見番所に、紺地に三階菱の小笠原家紋を染めた大旗を掲げる旗柱が建てられました。筑前と豊前の国境近くの海に突き出た堺鼻に、小倉藩の見張番所がありました。この堺鼻番所で、藍島遠見番所に掲げられた大旗を確認していました。堺鼻番所があった櫓山(やぐらやま)のすぐ西を境川が流れています。この川が豊前と筑前、小倉藩と福岡藩の国境でした。響灘に面した豊前と筑前の国境付近は、古くから中原(なかばる)と呼ばれました。明治に入ると、筑前側は中原村でしたが、豊前側は1897(明治20)年中原村と井堀村が合併して中井村になり中井の地名がつくられました。


⑤ 日本書紀に出て来る名護屋崎

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戸畑村の最北端の岬が名護屋崎(名古屋崎)、現在は埋め立てられ、新日本製鉄の敷地内にある。

その他の同名地:
•佐賀県唐津市鎮西町名護屋
•大分県佐伯市蒲江町名護屋
•愛知県名古屋市


名護屋海岸

日明から中原、そして名護屋岬へと続く海岸は、文字通りの白砂青松の地であった。名護屋岬は戸畑の区域に入る。大正末期。

(明治大正昭和「小倉」より)(彦島のけしきより)


⑥ 戸畑区の国立大学の今昔

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2016年

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1975年

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1950年

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1920年

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1907年以来の正門

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JR九州、鹿児島本線、九州工大前駅(旧新中原駅)

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旧西鉄戸畑線、工大前駅


⑦ 日産自動車株式会社のルーツは戸畑にあった日立金属(旧戸畑鋳物)が発祥(参考)
 
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若戸大橋から見た日立金属(現JR、鹿児島本線の隣)


⑧ ニッスイ(参考)

ニッスイは、創業者・田村市郎が、トロール漁船を建造するため国司浩助くにしこうすけをイギリスへ派遣したところから始まります。1911(明治44)年、下関に田村汽船漁業部を設立。1929(昭和4)年には戸畑に移転し、水産物供給のための機能を結集しました。

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戸畑漁港とニッスイ(若戸大橋の北隣)


⑨ 西日本工業倶楽部(参考)、、旧松本家住宅(参考)

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松本健次郎が明治41年~45年のかけて建てた、自らの住宅と明治専門学校の迎賓館。設計は辰野金吾。昭和27年から西日本工業倶楽部の会館となる。

北隣の旧安川邸も保存されることになった。

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旧安川邸の洋館と日本家屋

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九州工業大学の南西隣


10 中ノ島

若松城が築かれた中ノ島は、1940年に削平され海没、城の規模・縄張り等について詳細を知ることはできないが、伊能忠敬の測量記録によると、島の外周は6町7間4尺(約700m)であったという。島の古写真が多く残るが、その地形は極めて平らかである。「戸畑古図 文政天保頃」を見ると、海側には波状岩らしきものが描かれており、海側からの船の接近を阻む城であったことが推定される。(wikiより)

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中ノ島(かば島)の昭和13年作成の地図

いつ頃かは わかりませんが、牧山海岸辺りから見た銀座方面、真ん中は 河 白斗 島(かばしま)、大潮の時は歩いて渡れたってのも頷ける。

by 北村 嘉玲 氏


11 若戸渡船の戸畑側の桟橋が2018.6.17に引退した。