春秋戦国時代
春秋戦国時代は、紀元前770年に周が都(鎬京)を洛邑(洛陽)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周は従前の周と区別するため、東周または東周時代と称される。
春秋戦国時代はさらに、春秋時代と戦国時代に分けられる。その境は一般的に、晋が韓・魏・趙によって分割された紀元前453年とされる(『資治通鑑』)。その他に、晋の大夫であった韓・魏・趙の三氏が諸侯として正式に認められた紀元前403年とする説、『春秋』の記述が終了する紀元前481年(魯哀公十四年)とする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とするなどの説もある。
春秋の名称は、魯の歴史書で経書の一つである『春秋』に由来し、戦国の名称は『戦国策』から取られている。
春秋時代に、周王を中心とする世襲的な封建制度が崩壊し、周王の権力も衰退した。かわりに、各国に中央集権制的な新しい官僚制がしだいに形成された。斉や晋などの国が覇者として周王に代わって他の国々を統括し、合併をすすめる。これらの国では、家臣たちがしだいに実権をにぎり、最終的には国を手にすることになる。実力者が政治の実権をにぎる下剋上の動きは、春秋時代を通じて他の国々でも行われ、戦国時代にいたると官僚制的な国家がおのずと成立し、政治制度においてはそれまでの封建制から郡県制へと移行していく。
このような実験的な準備があるゆえ、このような国家の一つである秦が集権的な手段をもって順調に天下を統一し、かつ皇帝による中央集権的官僚体制が確立するのである。
春秋時代、周王は政治の実権を掌握していなかったが、依然として精神面の中心とされ、諸侯は王に次ぐ覇者となろうと動いていた。しかし、戦国時代になると、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、周王の権威は事実上失っていった。
政治的な変動は、社会や経済にも影響を及ぼしている。周の封建制を支えた氏族制的な社会は春秋中期になって崩れ、かわりに家族が社会を構成する基盤となり、それは官僚制や経済活動にも反映される。家族制に伴う経済の自由化は、商工業の発展、経済の繁盛、そして新しい都市の発達を促した。
百家争鳴
三皇五帝の代から夏・商・西周をへて、豊富で多彩な文化文明が蓄積されてきたが、東周の政治的、社会的、経済的な激変の刺激をうけ、文化思想がはなはだ活発になり、かつ著しく変容し、中国文化史上に唯一無二の活発性と多元化の景観を呈しつつ思想史上の黄金時代を迎えた。
戦国時代に入ると、周王朝の統制力が衰退することにともなって、列国の諸侯がそれぞれ抗争して、群雄割拠するようになった。天下の未曽有な混乱と危機を抱え、太古から伝わってきた多大な思想と智慧をもとに、学者・思想家たちは自由奔放に自らの思想を主張し、「諸子百家」と呼ばれる思想家たちが続々と現れ、さまざまな思想、政論、学説を主張し、活躍した。
諸子とは、そもそも著書を著したとされる太古から漢にかけての人物の総称であるが、一般的に戦国時代に活躍していた思想家を指す。百家とは文字通り多くの学派ということを象徴的に表現したものである。
諸子の構成員について、『史記』『漢書』『韓非子』などにおいて見解が異なるが、一般的に、老子、荘子、孔子、列子、墨子、荀子、韓非子などがその主な思想家であり、道家、儒家、法家、名家、墨家などは代表的な学派であるとされる。その著作は主に戦国時代から漢代にかけて成立した。
この時代の主な思想家たちの流派を論じる観点から、九流ともよばれる。班固の『漢書』は、戦国時代に活躍した思想家たちを総合的に類別し、先秦思想家およびその系統をひく漢代思想家を儒家者流、道家者流、陰陽家者流、法家者流、名家者流、墨家者流、縦横家者流、雑家者流、農家者流の9流、および小説家に分けた。これを「九流十家」という。
諸子百家の自由奔放で活発な思想活動を比喩的に「百家争鳴」と呼ぶこともあり、これによって、中国の伝統的思想、価値観、方法論、学問は未曽有な繁栄期を迎え、多彩なバリエーションとともに多元的な試みや展開が行われていったのである。
百家争鳴という思想運動は、上古時代から伝わってきた伝統文化思想を継承、整理したうえ、相互影響・刺激によって中国文化思想を多元的に発展させ、かつ応用可能なものにさせたのである。すなわち、百家争鳴をへて、中国文化思想は抽象的から具体的へ、単一性から多元性へ、理論的から応用的なものへと変わったのである。
要するに、春秋戦国時代の百家争鳴は、時代の変貌に応じてさまざまな思想が提示され、論争・対比を通じてそれぞれの特徴を示し、未来の時代のために豊富多彩な選択肢を用意しておいたのである。いわば、それ以降の統制者や学者にとって、多くの思想文化の中から最適なものを選び、かつその力を発揮しつつ自らの政治や思想を生かしつつ、新しい歴史と文化を切り開くことができる準備を整えたのである。このように、百家争鳴は中国ないし世界文化思想史上において、特筆すべきものである。 (文・孫樹林)
⑤ 諸子百家(参考)、、、生国別の名前、孔丘(孔子)の名前が魯に見える。
春秋時代の中国の国々(参考)、、、オレンジが周(漢民族)の末裔の国々、緑が殷(商、縄文人の国)の末裔の国々
⑥ 臨淄の稷下学宮――最も古い官営大学(参考)
発信時間: 2011-09-02 | チャイナネット
古代の斉の国がその都臨淄に設立した稷下学宮は、当時、多くの機能をもち、歴史的に多くの意味があった。それは中国の最も早い大学でもあれば、戦国時代(前475-前221)の政治諮問と学術文化交流のセンターでもあり、同時にまた諸子百家争鳴(各流派の学者が競って自分の見解を発表すること)の最も重要な場所の1つであり、戦国時代の社会科学院と言えるものであった。
稷下学宮の遺跡は斉の国の城である小城の西部と南西部にある。戦国時代においては、中国の社会は大変革の中にあった。田氏の斉の国の三代目の君主斉桓公田午は当時、新たに生まれた政権を強固にする必要で、人材が欠乏する現実に直面していた。そこで、この君主は斉の国の賢人を敬い名士を愛する優れた伝統を受け継ぎ、都臨淄の稷門付近に高く聳える学宮を築造し、天下の大志を抱く人を広く招き寄せた。 そのため、稷下学宮はまずは政府のコンサルティング機関とシンクタンクになった。
稷下学宮には規模の大きな校舎があり、かなり正規な授業・学習活動をくり広げる教師と学生が数多くおり、比較的厳密な規則制度があり、また独特な教育方式――遊学があった。学生は自由に稷下学宮に来て師を求めて勉強することができた。先生は稷下学宮で学生を募集して授業することができ、つまり学びと教えという二つの面の自由があった。
秦(前221-前206)以後の思想、学術、文化はほとんど全部稷下学宮にそのルーツを求めることができる。稷下学宮の出現は中国の文化発展史上の一里塚であり、世界文化史上のさんぜんと輝くページでもあったと言える。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年9月2日
⑦ 春秋戦国時代と斉国(参考)
(wikiより)
⑧ 斉国人は弥生時代の日本に渡来して大和政権につながる(参考)
⑨ 斉国のあった山東半島あたりは海鮮料理が美味しい(参考)
10 日本語の起源(参考)
11 中国の古代国家の殷は縄文人の国であり、漢字発祥の地であった