豊臣秀吉の朝鮮出兵において朝鮮陶工達を連れ帰るのは奴婢の解放であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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豊臣秀吉の朝鮮出兵についての現在の一般的な評価は、韓国・朝鮮、そして日本とも芳しくなく、侵略と略奪と言う悪行が指摘されている。確かに朝鮮半島での戦闘行為と陶工や文化人を連れ帰った行為が無かったと否定は出来ないが、腑に落ちないことが事がある。

例えば、朝鮮陶工を連れ帰り、萩焼、有田焼、薩摩焼など山口県から九州に陶磁器の技術が花開いたが、陶工達には朝鮮半島に戻るチャンスはあり、泣く泣く拉致されたままになった訳ではない。そして、江戸時代になると江戸城にまで朝鮮通信使が定期的にやって来たが、実質的に朝鮮からの朝貢であった。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃もそうであるが、日本による併合前は大韓帝国や李氏朝鮮と言う儒教国家があった。この李氏朝鮮の支配階級が現在の韓国右派につながり、被支配階級が韓国左派や北朝鮮の人々につながっており、そして、つい最近まで虐殺や強姦を含む内戦を行なっている(参考)。

以上の現実から豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代に遡ると、朝鮮半島で戦った相手は明国とつながった李氏朝鮮の支配階級、すなわち現在の韓国右派の先祖であり、日本に連れ帰った陶工達は被支配階級で現在の韓国左派の先祖であったと考えられる。

豊臣秀吉が陶工達を連れ帰らなかったら、彼ら陶工達や彼らの男子は現地の被支配階級の奴婢(白丁)として、陶工達の妻や女子は慰みの対象の奴婢(妓生、キーセン)として、抑圧されたままになっていたはずである。

豊臣秀吉が政権を握る日本と儒教国家の李氏朝鮮は戦ったが、豊臣政権を滅ぼした徳川幕府が政権を握る儒教国家の日本と儒教国家の李氏朝鮮は価値観が一致して、朝鮮通信使を継続的に派遣する仲になったのである。そして、豊臣秀吉一人を悪の張本人に仕立て上げたと考えられる。つまり、朝鮮半島内での戦いは、李氏朝鮮と徳川幕府の結託により、相当大げさに誇張されたと考えられる。

明治維新を達成した日本は儒教を信奉する徳川幕府を倒したが、朝鮮半島は依然として儒教国家のままであり、この価値観の相違が明治初期の征韓論から現在までの不幸につながったと考えられる。

李氏朝鮮時代末期の奴婢達、秀吉が連れ帰った陶工達もこの写真の奴婢と同様の被支配階級の白丁であった。


雑談1

元々、高麗茶碗を作っていた朝鮮陶工たちは高麗時代は高級技術者の白丁であったはずだが、李氏朝鮮時代は最底辺の白丁の身分の奴婢にされた。

だから、現在、日本で陶磁器を作っている朝鮮陶工の末裔達は見栄を張って、先祖は白丁と言う奴婢だったなんて告白しないと思うが、さらに昔の高麗時代の白丁は支配階級の高貴な身分だったことを指摘したい。


雑談2

李氏朝鮮では、陶工たちは白丁と言う身分であり、収奪の対象であり、最下層の賤民であった。上から命令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられた。ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができた。


参考

なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか

東洋経済(2017.2.18、参考)

朝鮮出兵は「明国が狙い」だった?

Q1. 「文禄・慶長の役」って何ですか?

国内統一を果たし天下人となった豊臣秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年から1598年にかけて2度にわたって朝鮮国(現在の韓国、北朝鮮)に攻め込んだ戦争です。

目的は「明国(現在の中国)を征服する」ことで、最初の1回目の戦いを「文禄の役」(1592~1593)、2回目の戦いを「慶長の役」(1597~1598)と呼びます。

Q2.「朝鮮征服」ではなく「明国が狙い」だった?

そうです。秀吉の目的はあくまで「明の征服」でした。しかし、出兵に際して経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ討つと伝達したことで朝鮮側の反発が起き、「明国までの道を貸すように」という要求も拒まれ、朝鮮との戦いになりました。戦場となった朝鮮半島では、多くの被害が生じました。

Q3. どんな戦いが繰り広げられたのですか?

「文禄の役」では、序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けました。朝鮮軍の抵抗もありましたが、わずか1カ月足らずで首都「漢城」(現在のソウル)を落とします。

さらに2カ月後には小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して、日本側が朝鮮全域を席巻しました。

Q4. その勢いのまま明に攻め込んだのですか?

いいえ、途中で停滞しました。当時、朝鮮と深い関係にあった明からの援軍が押し寄せたからです。

朝鮮側が義兵(義勇軍)を組織し、ゲリラ戦を展開して抵抗したことや、朝鮮半島の南部は山岳地帯で、玄界灘から続く長い補給路を維持するのに苦労したことも日本側の勢いが続かなかった大きな要因でした。

Q5. では、日本は負けたのですか?

勝ち負けはつかず、漢城の日本軍が窮地に追い込まれたのを機に「和議」を結ぶこととなり、日本は撤退しました。しかし、いったんは成立した講和は行き違いが生じたことで決裂し、再び遠征が始まります。これが2回目の「慶長の役」です。

Q6. 「慶長の役」も途中で中止されたのですよね?

はい。戦いの最中に秀吉が死去します。これを機に遠征は急きょ中止となり、戦いは終わりました。


② 豊臣秀吉の朝鮮出兵での陶工達を連れ帰ったことについての現代の日本と韓国での認識(参考)

秀吉の部将たちが陶工を連れて帰るなどがあったが、戦場の習いで戦利品は当然持って帰ったことは事実であるが、獲られたほうは当然「略奪された」と主張するのも当然であろう。

(陶工の来日)

国定韓国中学校教科書(日本語訳ー明石書店刊)を見ると、「日本は、朝鮮より活字・書籍・絵画などの文化財を略奪していき、また、陶磁器の技術者と学者を連れていった。これは日本の文化発展に大きな助けになった。」と記述している。(200ページ)

高校の教科書は、「そして東アジアの文化的後進国で日本は、わが国から活字、書籍、絵画などの文化財を略奪し、学者や技術者を拉致していった。朝鮮の性理学もこの時に日本に伝えられ、日本文化の発展に多大の影響を与えた。」(186ページ)

以上中・高の教科書には、秀吉軍は文化財・陶磁器工・学者などを拉致(中学では連れて行く)して、それが日本文化の発展に役立っている、という趣旨の記述がなされている。

そのことは概ね事実としてとらえていいのではないかとおもわれる。しかし、日本の近世史の専門家の中には、「拉致」に抵抗を感じる人たちが居るのも事実である。この附近が「歴史認識」の摺り合わせを要するところである。

そして、朝鮮からもたらされた文物と技術者たちの来日は日本の文化に多大な貢献をしたことも事実であろう。


③ 豊臣秀吉の悪行は徳川幕府が捏造したものであった(参考)


④ 豊臣秀吉の朝鮮出兵は呆けて行った訳ではなかった、ポルトガルなど西洋の侵略を防ぐためであった(参考)、、、明国を押さえて、ここを足がかりにフィリピンのスペイン勢力を追い払う為との説があり、証拠の文献資料がある。


⑤ 江戸時代の朝鮮通信使の一行は華やかに描かれていたが、よく見ると実は日本への朝貢使の扱いであり、江戸城の裏門から入城していた(参考)。また、台風など天候を予測出来ない夏季に、対馬海峡の海流に逆らったルートを渡海させられていた(参考)。


⑥ 萩焼の歴史と特徴(参考)

萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(リ シャッコウ~山村家、後に断絶~)、李敬(リ ケイ~坂家~)の兄弟が、城下で御用窯を築いたのが始まりとされています。よって、当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていたようです。その後、兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出し、分かれ、後 坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代といわれてます。


⑦ 「有田焼の母」百婆仙を顕彰 10日にイベント 朝鮮陶工率いて移住 [佐賀県]

西日本新聞(2019.3.9、参考)


16~17世紀に朝鮮陶工を率いた女性リーダー、百婆仙(ひゃくばせん)の命日に合わせたイベントが10日、有田町本町の町生涯学習センターで開かれる。これに先立ち、6日には駐福岡韓国総領事館の孫鍾植(ソンジョンシク)総領事が町内の関連史跡を訪問した。

百婆仙は韓国の金海(キメ)から夫の金泰道(キムテド)(日本名・深海宗伝)とともに、武雄領主の後藤家信に連れられ武雄に来た。夫の死後、陶工約千人を率いて有田に移住し、1656年3月10日に96歳で死去したとされる。

同町では「有田焼の母」として敬慕され、2016年に有志が「ギャラリー百婆仙」(久保田均館長)を開いた。日韓の女性作家の陶芸作品を展示しており、昨年春には敷地内に百婆仙像を建立した。

孫総領事は6日に同ギャラリーや石碑が残る報恩寺を訪問。雨天の中で線香をあげ、「有田焼の陶祖・李参平はよく知られているが、百婆仙についても今後の研究や顕彰活動に関心を寄せていきたい」と話した。

10日は韓国金海市の百婆仙研究者李鳳洙(イボンス)さんが「陶磁の源流~百婆仙のふるさとテガン村と時代背景」と題して講演するほか、韓国伝統楽器カヤグムの演奏がある。入場無料。

=2019/03/09付 西日本新聞朝刊=


⑧ 豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れ帰った陶工達は朝鮮半島では被差別民で搾取される立場であり、意に反して日本に留まった訳では無かった