豊臣秀吉は年をとっても呆けてはいなかった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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豊臣秀吉が朝鮮出兵やキリスト教宣教師の追放など、高齢で呆けて気が狂ったと歴史教科書には書かれている。

しかし、当時、宣教師達は日本人を奴隷として売り飛ばしたり、スペインの東アジアの植民地化の陰謀があったようだ。

豊臣秀吉の行いは日本を守る為のものであったようだ。だから、大名達は二回も朝鮮出兵に応じたと考えられる。

朝鮮人の耳を削ぎ取って持って帰ったと言う話と京都の耳塚は、徳川幕府の正当性を主張する為の捏造と考えられる(参考)。毛利輝元など西軍は豊臣秀吉に対して恨みを一切持っていないのが、その証拠である。


雑談

織田信長、徳川家康、前田利家らは農民などの庶民が信者の一向宗を弾圧したが、毛利輝元は一向宗(浄土真宗)を庇護し、また豊臣秀吉の政権時代は一向宗を弾圧しなかった。


参考

① 大航海時代に人身売買された日本人の奴隷化の経緯や海外での暮らしの実例を再現

ALL reviews(2018.11.24、参考)

旦 敬介


経緯や暮らし読み解く

江戸時代が始まる直前直後の時期には、ヨーロッパやアジアの各地、さらにはメキシコやペルーなど新大陸にまで、かなり多くの日本人の男女が奴隷や期限付きの契約使用人として運ばれて暮らしていた。その大部分が現代の言い方では人身売買に相当するが、そこにはポルトガル人の商人が深くかかわっていた。本書は、彼らの奴隷化の経緯や海外での暮らしの実例を、スペイン・ポルトガル植民地の公文書を丹念に読み解くことで再現した労作である。 

とくに詳細が判明しているケースとして扱われるのは、八歳頃に九州の故郷でさらわれて、長崎に暮らすポルトガル人商人に買いとられた日本名不明の少年「ガスパール」の生涯だ。この商人は、形だけカトリックに改宗しているユダヤ人だとして異端審問所に告発され、ポルトガルからゴア、マラッカ、マカオと逃れてきている人物だった。ところが、長崎にまで追っ手が来たことにより、少年は主人一家とともにマニラに渡り、ついにはメキシコ・シティにまで行きつくことになる。メキシコで奴隷身分からの解放を求める訴訟を起こしたことによって彼の生涯の記録が残っていたのだ。

興味を引かれたのはメキシコで発せられた裁判所の命令にもとづいて長崎でポルトガル人が証言をして、その証言書類がマニラを経由して着実にメキシコに届けられるといったスペイン・ポルトガル帝国(当時は統合されたひとつの王国だった)の精緻(せいち)な情報伝達のシステムであり、その厳格な文書主義だ。それが一六〇〇年頃にすでに帝国各地で確立していたことにより、この本は可能になった。 

この二十年ほどの間に、アフリカ人の奴隷貿易については各地の研究者による史料調査が進んで、個人名の特定に至るような精緻な研究が進展しているが、この著作もその流れの中に位置しているだろう。こういう本を読むと、歴史家の仕事の醍醐(だいご)味というものを感じる。 

【初出メディア】 
読売新聞 2017年6月4日 

【書誌情報】


② ルイスフロイスの秀吉評(参考)

織田信長が本能寺の変で命を落とした後、皆さんがご存知の様に豊臣秀吉が信長の後継者となりました。

秀吉とフロイスの関係は、秀吉が信長の政策などを受け継いでいたためもあり、とても良い関係にありました。

ところが、ある事件をきっかけにして、秀吉とフロイスの関係にすきま風が吹くようになりました。

その事件とは、秀吉が出したバテレン追放令です。

豊臣秀吉は、イエズス会・・・つまりイスパニアの勢力拡大が、アジアまで伸びてきた事に大変危機感を抱くようになります。

バテレン追放令により、ルイスフロイスはキリスト教の布教が出来なくなりました。

そんな事もあったせいか、フロイスの秀吉に対する評価はとても低いものでした。

秀吉は背が低く、醜悪な容貌の持ち主で、気品に欠けていたと酷評しています。


③ フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

しばやんの日々(参考)、、、内容を抜粋

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。

「伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)

フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。

また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。

秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68

ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…

以下省略