朝鮮通信使と内臓食文化 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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朝鮮通信使の一行は華やかに描かれていたが、よく見ると実は日本への朝貢使の扱いであり、江戸城の裏門から入城していた。また、お行儀も良くなく、鶏を失敬してトラブルを起こした絵が残っていた。

しかし、接待料理に関し、当時の日本に無く朝鮮半島でも滅多に食べられない焼肉、モツ料理、そしてキムチなども用意していた。

ここで焼肉やモツ料理は高麗時代以前の食文化では無く、李氏朝鮮時代以来の食文化であり、モンゴル族やエベンキ族など遊牧民族に由来していた。

注: 日本の本格的な肉食は明治になってからであり、モツ料理(もつ鍋、ホルモン、とんちゃん等)は戦後の食糧難から普及した。江戸時代までは魚肉食・鶏肉食が主であり、四足獣は薬用として以外は食していなかったとされている。


参考

①朝鮮通信使の来日

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下関市赤間神宮前、朝鮮通信使は赤間関で一時上陸し、阿弥陀寺、引接寺に分宿した。

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朝鮮通信使の船(参考)

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瀬戸内海を進む朝鮮通信使(参考)

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狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年承応4年・孝宗6年(wikiより)


② 待遇

通信使の江戸城への入城については、幕府は江戸城裏門からの入城しか許さなかったと言う説と、大手門から入城できたという説がある。「徳川実記」には「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」などの記録があるが、裏門へ回る際にもここで下馬せねばならず、この事をもって大手門から入場できたとは言えない(wikiより)。

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江戸城への入場の絵図(参考)、赤印が裏門、青印が表門

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絵図の拡大、江戸城裏門から入場している(参考)

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大名が入城する表門(参考)


③ 文化摩擦と事件(wikiより)

通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くものもあった。

警護にあたる対馬藩士が侮辱を受けることもあり、1764年(宝暦14年・英祖40年)には、藩士が第11次通信使の随員を殺害した唐人殺しと呼ばれる事件も起きている。事件の舞台は大坂の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が通信使一行の都訓導・崔天崇に杖で打ち据えられて、夜中に槍を使って崔天崇を刺殺した。発端は、朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したことによる。また、幕府は朝鮮への経過報告については対馬藩を通さず直接に伝えることを検討するが、宗氏はこれに反対して交渉役を継続し、のちに倭館にて朝鮮側に経過を報告して好意的な返答を得た。儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。宗家の宗義蕃は、朝鮮人が打擲をしたのは日朝の風習の違いによるものとしつつ、通信使の随員が通詞を打擲した点を批判した

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鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮通信使(参考)


④ 接待料理(wikiより)

朝鮮の草梁倭館で集められた情報は、通信使の来日において各地の接待料理である饗応膳にも活かされた。対馬藩は食材や調理法の情報を幕府や各藩に提供して、饗応料理を発展させた。朝鮮の肉食の習慣は通信使の来日前から知られていたが、当時の日本では肉食の習慣が一般的ではなかった。そこで日本側で牛や豚を提供して、通信使一行の料理人である刀尺が解体と調理を行った。通信使の宿所が寺である場合は、殺生のための生き物を正門からは入れられないため、獣肉搬入用の門を用意する場合もあった。

やがて日本でも接待役が朝鮮料理を作れるように、料理本として『信使通筋覚書、朝鮮人好物附之写』が刊行された。この書では通信使の好物のほかに焼肉、モツ料理、きみすい(キムチ)の作り方などが解説されており、また瑞鳥とされているなどを料理に出さないといった注意点も書かれている。獣肉は牛、鹿、猪、鳥肉では雉などが出されており、魚介類では粕漬、鰹節に興味を示した。和菓子は好評であり、精進物ではセリ、にぶか(ニラ)、ニンニク、小豆飯などが好まれた。トウガラシなどの作物は17世紀以降に朝鮮へ持ち込まれており、サツマイモは趙曮が対馬で栽培を学び、凶作にも役立つ作物であると『海槎日記』に記している。


⑤ 朝鮮の肉食文化(参考)

高麗時代の仏教を廃した李氏朝鮮では、騎馬民族モンゴルの統治下(異論がある方もいるでしょうが属国であったこといは否定のしようがありません)になり、モンゴル民族の肉食の影響を強く受けます。

「屠門大嚼」や「増補山林経済」の記述によれば、牛、豚、猪、鶏、雉、兎、山羊、犬、鵞鳥、家鴨、鷹、ノロ鹿,、鹿、熊(掌)、豹、等が食用に供され、その中で牛、豚、鶏、山羊、犬、鵞鳥、家鴨等は家畜として飼育し、他は主に狩猟により手に入れていたようです。

しかし、家畜が全て食用に廻された訳ではなく、牛は、農作業や重い荷を運ぶには欠かすことができず、また軍の移動には馬が利用されますので、やはりこれも食用には供されることは余り無かったようです。

しかしながら、当時のモンゴル軍は行軍に際し、重要な食料である羊と共に移動していました。通常は羊を食用(遊牧の民は緑色のものは羊の食べ物として普段は口にしませんでした)にしていても、非常時には軍馬を潰して食べたであろうことは容易に想像がつきます。

元の統治下にあった李氏朝鮮では、宮廷内にも多くのモンゴル人が配置され、その食生活にも強く影響され、高麗時代の1325年にも牛馬の屠殺禁止令が出されていることからすると、モンゴルによる統治以前にも、馬が食用に供されていたことは確かなようです。また、度重なる牛馬の屠刹禁止令からすると、牛馬を潰して食べてしまう輩が横行していたようです。

豚や鶏はその子豚や鶏卵が物々交換の手段として活用でき、積極的に家畜として飼育されたようですが、これもまた食用目的ではありませんでした。

一般に大型家畜類の飼育には多くの餌を消費します。餌としてよく使われるトウモロコシは、中国から1700年代に伝わり、サツマイモは1763年に対馬から伝わっています。更にジャガイモに至っては、1824年になって初めて中国から伝わっています。つまり朝鮮半島では、家畜の餌となる穀物が極端に不足し、肉類を食習慣とする状況では無かったことが判ります。ましてや、一般民衆が肉食をすることなどあり得なかったことが推察できます。

現在でも北朝鮮の潜入ルポ等で、自由市場(闇市?)の様子が映ると、必ずと言って良いほど、子豚と羊、鶏を売っています。これは広い牧草地を必要とする牛と比較すると、狭い範囲での飼育が可能で、餌にも余り困らず、生産効率が高いからだと言えます。


⑥ 内臓食(モツ料理、wikiより)

元が朝鮮半島の高麗に進出してのちモンゴルの肉食文化の影響を受けたとしている。現在のモンゴルに内臓の腸詰、中国に牛の内臓を煮込んだ牛雑、そして内モンゴルにおいては羊の内臓を煮込んだ羊雑碎(ヤンザースイ)という料理がある。

李氏朝鮮以来の朝鮮民族はエベンキ族に関係しているとの最新学説かあるが、現在のエベンキ族についてwikiをみると内臓食があった:

エヴェンキ(ロシア語 Эвенки(Evenki), 中国語 鄂温克族(拼音Èwēnkè Zú))は、ツングース系民族の一つで、主にロシア国内のクラスノヤルスク地方にある旧エヴェンキ自治管区地域に居住する。ほか、ロシア国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区エヴェンキ族自治旗黒竜江省などに居住している。エベンキとも表記される。

エヴェンキの民族を代表する生業は狩猟とトナカイの遊牧で、狩猟では皮革採取や肉・内臓の食用のために鹿類、テンなどが捕獲の対象である。狩猟の際の移動にはトナカイに騎乗し、トナカイで荷物も運搬する。交配のための種雄を除き、雄のトナカイには去勢を行なう。トナカイはそのほか、乳飲用に利用するほか、その肉・内臓・血を食用・飲用とし、中国では漢方薬として袋角採取も行う。基本的にトナカイの飼育・管理は女性の仕事であり、男性が狩猟に専念しやすくなっている。