徐福は漢語・万葉仮名の日本文を書いた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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秦の始皇帝は紀元前210年9月10日に無くなったが、その前、始皇帝の命を受けた徐福は3,000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったという。この童男童女は始皇帝の一族であって、亡命の意味があった(参考)。

この時期、秦の始皇帝は漢字の書体を整えた。著者は既に、この時期、原日本語は東アジア全体で話され(参考)、秦の始皇帝は原日本語を喋っていたことを論じた(参考)。すなわち、書体の統一より前は神代文字の様な原始的な文字を使い、書体の統一以後は秦の始皇帝や彼の家臣たちは漢字仮名交じり文(漢語と万葉仮名)で文書を書いた(参考)そして、孔子の儒教は既に完成しており、斉国の滅亡直前まで百家鳴争と言われるくらい学問が発達していた。従って、この時期には儒教の影響で男系男子を重んじる文化になっていたと推定される。

徐福が筆録したと言われる宮下文書はまさにこの時期以後に対応して、漢語と万葉仮名を併用した記紀風の文書となっている。そして、この文書に記されたウガヤフキアエズ王朝について、他の古史古伝では女王もいたが、儒教思想に合わせて男系男子にしてしまっている。

この書かれた時期が推定できる宮下文書を基準にして、それよりも前の時期に書かれた古伝は神代文字で書かれたと考えられる。

宮下文書が助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられていると言うが、「記紀万葉」の日本語は現代人でも理解出来、8母音は例外で、以前は5母音であったとすれば、宮下文書は比較的新しい偽書とは言い切れないことになる。

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宮下文書(参考)

宮下文書の中に支那とか震旦國とあるが、これが正しければ秦の字そのものは漢の時代の漢語であり、秦人たちは秦を原日本語(訓読み)で「支那」とか「震旦」と読み書きしたのであろう。紀元2世紀前後にインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいたが、これが秦の国名の発音、震旦であった。

雑談1:
現在、中国人(漢族)を蔑んで支那人と呼ぶのは日本人みずからに向けて唾を吐く様なものである。秦の始皇帝の悪評は漢の時代に形成され、漢の建国の正当性を主張するためである。すなわち、秦の始皇帝と秦人達が漢民族では無かった証拠である。焚書坑儒なんかも現在にも実例があるが歴史の捏造の可能性が大きい。

wikiによると、始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する。この時代には「無道秦」や「暴秦」等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した

雑談2:
秦の氏族名はハタ、国名はシナであったのを漢人たちは秦(しん、シナに近い漢音)の一字をあてたので、後々、秦(音読み=しん、氏族名の訓読み=ハタ、国名の訓読み=支那、シナ)となったと考えられる。

雑談3:
秦(=支那)とライバルだった同族の羌族(きょうぞく)は現在、チャン族と呼ばれているが、チャン=chanであり支那=chinaと発音はほとんど違わない。

雑談4:
著者の判断では、「蓬莱山高天原天都洲」とは富士山の麓の徐福の王都では無かった。平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べたのを根拠として、以来、宮下文書を所有する宮下さんが富士山麓にお宮を作ったのでは!?徐福が日本列島に到着した時期は紀元前3世紀、弥生時代の始まりあたりであり、徐福伝説のある北九州あたり、または紀伊半島南端から北上した奈良盆地あたりが、徐福が住み着いたと言う蓬莱山高天原天都洲と考えた方が納得する。

雑談5:
瓊瓊杵命より早く高天原から地上に降りた饒速日命が徐福であるとの説のブログを見るが、無理な説ではない。饒速日命は葛城山・金剛山の麓の高天原(現在地名は高天)に降りたとされる。紀伊半島南部の徐福が上陸した新宮から高天へのルートは神武天皇が八咫烏に導かれたルートとほぼ一致する。現在の蓬莱山は琵琶湖の西岸の比良山地の一つの山頂として日本で唯一存在する。この蓬莱山は古代の山岳信仰の地であった。


参考

① 宮下文書(みやしたもんじょ、wikiより)

富士山の北麓、山梨県富士市吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。だが、その信憑性については疑いがもたれており、いわゆる古史古伝の代表例に挙げられる。

文体は漢語と万葉仮名を併用した記紀風のもので、筆者・成立事情は不明助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられている大正時代には宮下文書をもとに美輪義熈『神皇記』が成立した。


② 宮下文書(富士文書、wikiより)におけるウガヤフキアエズ王朝

「富士宮下文書」によれば、ウガヤ朝は51代続いたとするが、五瀬命は皇太子のまま薨去し即位はしてはいないことになっており代数に数えられていない。また歴代すべて男帝であって女帝は存在しない。また歴代すべて単純な父子相続になっているが「富士宮下文書」では皇統譜にかぎらずすべての系図にこの傾向があり、機械的につなげたにすぎないと思われる。ウガヤ朝の天皇はすべて「神皇」、皇后は「神后」という用語を使っている。

代数に大きな食い違いがあるように見えるが、『ウエツフミ』「竹内文献」の第2代をとばして、第3代が「富士宮下文書」の第2代に当たるとして順次ずらしていくと、「富士宮下文書」の第50代(=『ウエツフミ』「竹内文献」の第51代)までは名前や山陵地や治世中の事件などがよく一致する。なので『ウエツフミ』「竹内文献」の第52代〜第70代が「富士宮下文書」においては欠落しているらしい。そのあと「富士宮下文書」の第51代が『ウエツフミ』「竹内文献」の第71代にあたる。ただし、『ウエツフミ』「竹内文献」における女帝はすべて一般の皇后にあたる「神后」に、「ヤサチヲ」は一般の天皇に該当する「神皇」に名称(表記?)が変更されている。


③ 古史古伝(wikiより)は、

1. 写本自体が私有され非公開である、などの理由で資料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
2. 超古代文明について言及されている
3. 漢字の伝来以前に日本にあったという主張がある神代文字で綴られている
4. 上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)
5. 成立したとされる年代より後(特に近代以降)の用語や表記法が使用されている


④ 古史四書(wikiより)

1. 「九鬼神伝精史」(いわゆる「九鬼文書」。『天津鞴韜秘文』(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)
2. 「竹内太古史」(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
3.「富士高天原朝史」(いわゆる「富士谷文書」(ふじやもんじょ)。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
4.「物部秘史」(いわゆる「物部文書」)「物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。

「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。上記のタイトル(九鬼神伝精史・竹内太古史・富士高天原朝史・物部秘史)は吾郷清彦が独自に名付けたものである。九鬼文書と富士文書は複数の書物の集合体であって全体のタイトルがなかったことによる

竹内文書、大友文書、富士文書を三大奇書ともいう


⑤  古伝(wikiより)

1. 『ウエツフミ』(大友文書大友文献ともいう)
2. 『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
3.『ミカサフミ
4.『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。

この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

また、『フトマニ』という書がある。この『フトマニ』は普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷清彦は『カンヲシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)と名付けた。『フトマニ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」ということができる。一部の肯定派の研究者からは「ヲシテ文献」と一括してよばれる。

また、カタカムナに関係する『神名比備軌』(かむなひびき)や『間之統示』(まのすべし)という漢字文献も「カタカムナ系の文献」として一括できるが、これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は「歴史書」ではない。「超古代文書=古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念である。


⑥ 支那、震旦國(wikiより)

支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(拼音Qín梵語ThinChin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春などは反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」との意からきたともいう。なお、このシナの発音が西洋に伝わり英語の"China"フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている。紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している。インド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶ。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。

インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。


⑦ 史記(wikiより)、、、秦と秦の始皇帝を初めて書く

史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。


⑧ 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ、wikiより)

中国を秦王朝が統治していた時代に発生した思想弾圧事件。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味。


⑨ 記紀との比較(参考)

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神代文字から漢字(和文の漢字表記)への翻訳が徐福と言う主張が、本文書の信憑性である。