ルモンド・イリュストレの西郷隆盛の絵はフェリックス・レガメが描いた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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イラスト(挿絵)画家のフェリックス・レガメは1876年(明治9年)8月、日本に到着し、明治10年3月頃にフランスに帰国した。ルモンド・イリュストレ紙の1877年3月31日号には早くも、フランスからの宗教調査使節のために伊勢神宮で披露された舞を描いたレガメのスケッチが掲載されている。

西南戦争は明治10年2月に勃発したが、例の鎧をまとった武士と一緒にイラストとして描かれた西郷隆盛はルモンド・イリュストレ紙の1877年刊行号に速報記事として掲載されている。

この記事のイラストは西郷軍の本陣に画家自ら赴いて突撃取材のようにスケッチしなければ得られないリアリティーを持っている(参考)。レガメの帰国のタイミングからすると、西南戦争勃発で急遽スケジュールを変更して急行し、田原坂の戦い直前の鹿児島から熊本あたりでスケッチして長崎港から出港したと考えられる。官軍側の従軍取材では得られない貴重なイラストになっている。レガメの他のイラストと比較しても画風がよく似ており、当人と考えて間違いない。

西南戦争は日本の近代的新聞報道の起爆剤となって、従軍取材を新聞各社は競っているが、欧米では既に海外にまで特派員を派遣し、また挿絵画家などと契約を結んでいたようだ。フランスのルモンド・イリュストレ紙は日本の開国当時から取材している。

下のイラストの拡大、最晩年の西郷隆盛

Takamoroi Saigo et ses officiers à la rebellion de Satsumar(1877)

挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」フランスの新聞雑誌(英語版)ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である(wikiより)

フェリックス・レガメの日本のイラスト(参考)


参考

① 日本のメディア史-7 ~西南戦争と新聞~

佐藤祥司  (46  設計)  09/05/21 PM08

ルイネット (参考)

1877年(明治10年)の西南戦争は新聞界に大きな変化をもたらした。西郷隆盛の威望とその去就に関心を抱いていた民衆は、戦況を一刻も早く知ろうと競って新聞を買い、新聞は飛躍的に発展した。

西南戦争にいは各社は競って特派員を送って報道の万全を期した。

「日日新聞」の福地源一郎は、「戦報採録」として20回前後にわたって掲載。明治天皇に戦地の状況を奏上するなど活躍。

「報知新聞」の犬養毅も「戦地直報」として104回連載。

西南戦争の報道で注目すべきは、西郷隆盛の戦死のビッグ・ニュースを即日「読売新聞」の号外で読者に知らせたこと。

内務省図書局調査による全国新聞の発行部数
     1年の総発行部数 1日の発行部数 人口1万当りの部数
明治7年      8,370,269        23,306         6.90
明治8年    15,897,680        43,555       12.95
明治9年    28,979,049        79,395       22.44
明治10年  33,449,529        93,286       26.00

■ 雑誌の専門分化
明治7年から10年頃までの機関は雑誌が専門化し、急速に発達していった。主要な雑誌は新聞社が発行していることから、雑誌発行が新聞社の副業の形をとっている。

評論雑誌、政論雑誌、宗教雑誌、学術関係の雑誌、医事関係の雑誌、漢詩・漢文学の雑誌

■政党の勃興と政党機関紙化
明治10年代は政党機関紙の興亡の時代。
契機となったのは明治14年政変。この事件は参議大隈重信が政府倒壊の陰謀を企てたという虚構の理由で、大隈はその職を免ぜられ、大隈系とみられた多数の官吏も免官となったクーデター。

この政変によって政党結成の気運が、にわかに強まった。
明治14年10月:自由党 板垣退助
明治15年3月  :改進党 大隈重信
明治15年3月  :帝政党 福地源一郎

大新聞、小新聞の区別なく新聞は殆ど政党機関紙化した。

福沢諭吉だけは政党とは無関係に官民調和を標榜して「時事新報」を創刊した。

自由党系機関紙:
・「自由新聞」(明治15年6月創刊)  社長:板垣退助
改進党攻撃、三菱征伐を行う。
・「朝野新聞」
・「日本立憲政党新聞」(明治15年2月創刊)  社長:中島信行
「大阪日報」が前身で、大阪最初の大新聞であったが、日本立憲政党設立と共に機関紙として買収され題号を変えた。後、政党の衰微と共に再び「大阪日報」に題号を復旧、後に「大阪毎日新聞」に改題。

改進党系機関紙:
・「郵便報知新聞」社長:矢野文雄(大隈重信に図って小西義敬から買収)
犬養毅、尾崎行雄、藤田茂吉、箕浦勝人、原敬などそうそうたる陣容
・「東京横浜毎日新聞」(「横浜毎日新聞」の改題)
・「内外政党事情」(「江湖新報」の改題)
・「大阪新報」

帝政党系機関紙:
・「東京日日新聞」帝政党解散で不振
・「明治日報」、「東洋新報」、「大東日報」など

中立系:
・「時事新報」(明治15年3月創刊) 慶応義塾出版社から発刊
明治14年政変以前から、伊藤博文、大隈重信、井上馨は近い将来、国会を開設することで意見が一致し、国権論を提唱していた福沢諭吉に新聞を発行を勧め快諾。政府の消極姿勢から福沢自力で創刊。不偏不党、独立自尊を主張し官民調和を標榜
・「朝日新聞」不偏不党の主張
報道第一主義に着目し、各地に通信員をおいて通信網の整備をはかった。17年清仏国交断絶の危機が切迫した際、上海へ特派し、海外報道に早くから注力。


② 日本の戦争報道 明治10年2月に勃発の西南戦争から始まった

NEWSポスト(2015.03.15 16:00、参考)

日本の戦争報道は、明治10(1877)年2月に勃発した西南戦争に始まるとされる。従軍取材を行なった明治初期のジャーナリストたちは戦地に赴き、政府軍の庇護の下、生々しい戦況を綴った。時には虚実をない交ぜに「官軍vs賊軍」の戦いを煽った。

〈(賊は)我が官軍が暁雨を冒して突進するに驚ろき勇気も挫け防戦するの力なし……官兵は此勢に乗じ「すは勝軍ぞ追打せよ」と打掛打掛追立たれば、賊は枕を並べて討死し、さしもに猖獗(しょうけつ)なりし猪武者等も浮足になりて逃出し背より打たれて倒るもの数を知らず〉(東京日日新聞1877年3月30日付)

まるで、活劇のような描写が続く。

西南戦争の激戦地、田原坂での戦闘を伝える記事である。西郷隆盛が率いた「賊」が「官兵」(政府軍)の攻撃から逃げ、背後から討たれる様子が事細かに描写されている。それは「猖獗なりし猪武者等」の表現からも明らかな通り、戦争を「勧善懲悪」の物語に仕立て、ことさら政府軍の強さを強調するものだ。

西南戦争は、日本の新聞にとって「戦争報道」の幕開けとなる出来事だった。各社は記者を東京から派遣し、戦況の推移を連日書き立て報道合戦を演じた。中でも、政府軍内部に深く入り込み、軍の記録係として戦地取材を続けた東京日日新聞社長の福地桜痴(ふくちおうち)は、質・量ともに他紙を圧倒する従軍記事を書きスクープを連発。冒頭に一部引用した福地の連載「戦報採録」は、鹿児島から遠く離れた東京の読者を熱狂させたという。

それに対抗したのが、郵便報知新聞で「戦地直報」を手がけた若手記者は、後に首相となる犬養毅だ。

〈田原坂は死屍爛臭の気鼻を撲(う)ち……頭脳へ迄(まで)薫し一歩も進み難き程なり〉(4月6日付)

軍首脳部に入り込んだ福地と異なり、犬養は「砲煙弾雨の中を縦横に」駆け抜け最前線で取材を続けたという。

9月24日、政府軍の総攻撃により西郷らが自刃して戦争が終結すると、その日の午後には日日新聞の号外が東京市中に出回った。

〈兼(かね)て待ち設けたる薩賊殲滅の吉報は果して今月今日を以て我らの手に落るを得たり〉

──そう始まる号外は、ソースとなった〈只今賊の根拠を陥いれ、西郷桐野村田戦死せり〉の政府軍電信を引用して終わっている。

一方、犬養の「戦地直報」(10月5日付)はこう書いた。

〈……戦全く止む。諸軍喧呼して曰ふ。我れ西郷を獲たり、我れ獲たりと。而して西郷の首、果して誰が手に落ちるを知らざるなり……英雄の末路ついに方向を錯り、屍を原野に晒すと雖(いえど)も、戊辰の偉功国民誰が之を記せざらんや〉

戦争終結に際し、「西郷を討ったのは自分だ」と手柄を誇る政府軍兵士の声とともに、その死を悼む犬養の心情が綴られている。

西南戦争報道を経て、新聞は大きく部数を伸ばした。内務省総務局調査によると、全国の新聞年間発行部数は戦争前年の2898万部から、3345万部に急増している。

※SAPIO2015年4月号


③ 西南戦争を伝える(参考)

今から120年まえ1877(明治10)年の西南戦争は、当時の社会においても強い関心をもたれた大事件でした。西南戦争には、写真師が従軍して記録写真を撮っていますが、視覚的に戦争の様子を人々に伝えたのは錦絵でした。大阪では、西南戦争関係の報道のためだけに、錦絵入りの新聞が創刊されました。また、西南戦争を題材にとった錦絵や読み物もたくさん出版されました。しかし、このように錦絵が視覚的報道の主役を担ったのは、西南戦争が最初で最後でした。これ以降は、写真が視覚的な報道の主役となっていきました。

西南戦争を伝えた錦絵新聞『有のそのまま』13号


④ 西南戦争の新聞、挿絵、錦絵、記録写真など

西南戦争時の官軍兵士の絵(wikiより)

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年、wikiより)

西郷隆盛の本陣、月岡芳年画(wikiより)

官軍と西郷軍の激突を描いた錦絵(wikiより)

城山を取り囲む帝国陸軍の要塞(wikiより)

警視隊(官軍)(wikiより)

薩摩軍の兵士、野村盛賢(参考)


⑤ フェリックス・レガメ(wikiより)

Félix Régamey(1844年8月7日 - 1907年5月7日はフランスの画家、挿絵画家。

1844年、フランスのパリで生れる。1870年代にアメリカに渡り、シカゴでデッサンの教育の改善に取り組むが、早くから日本への関心も抱いていた。1876年のフィラデルフィア万国博覧会ではリヨンの実業家エミール・ギメと出会い、フランスの文部省から極東の宗教調査を依頼されたギメとともに、記録画家として開国後間もない日本へ旅立つことになる。

1876年(明治9年)8月、日本に到着した彼らはまず横浜に滞在し、東京から京都へ向かう。伊勢、大阪、神戸を通り、その後、中国、インドを経て翌1877年3月頃に帰国する。この旅でレガメは芝居小屋や寺社の光景、庶民などの暮らしを生き生きとスケッチに残した。彼は、日本人の印象をこう述べている。

「日本人の微笑みは無償で与えられるものなのだ。それは全ての礼儀の基本となっていて、どんなに耐え難く悲しい状況であってもほほ笑みを浮かべるのである。」

パリの週間新聞『ル・モンド・イリュストレ(絵で見る世界)』誌の1877年3月31日号には早くも、フランスからの宗教調査使節のために伊勢神宮で披露された舞を描いたレガメのスケッチが掲載されている。帰国後の1878年にはギメとレガメはそれぞれ文章と挿絵を分担して『日本散策』を出版する。また、1878年のパリ万国博覧会ではギメが持ち帰った東洋の品々が展示され、調査の成果が披露された。

その後も二人は各地で日本文化を紹介するが、レガメは会場でスケッチを描いてギメの講演を補完したといわれる。1891年にレガメが出版した『実用日本』の中には満員聴衆の前、レガメが壇上で描いている日本の情景の絵「子どもの祈願」が挿絵として入っている。一見、祖母と母子が鳥を放って遊んでいるようだが、同書によると、日本の寺院では門のそばに鳥籠を前にした老女がいて子供は小銭と引き換えにその籠の鳥を一羽自由にしてやり善行を積む(放生会を参照)のだという。

レガメはその後も日本を紹介する数々の出版物を出し、1900年にはパリ日仏協会を設立、ギメが副会長、自らは事務局長に就任する。一方、ギメが持ち帰った大量の仏像は、現在では通称ギメ美術館として日本でもよく知られるフランス国立東洋美術館の母胎となった。


⑥ Le Monde illustré「ル・モンド・イリュストレ」紙(参考)

1857年4月パリで創刊された絵入り新聞。ほぼ1世紀にわたり発行され続けた。開国直後の日本の情報、バリ万国博覧会など豊富な挿絵を掲載