岩崎弥太郎と福沢諭吉 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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高円宮家の三女・絢子さまが、「日本郵船」勤務の守谷慧さんと近く婚約されることになったとの報道があり、確か守谷さんが慶應義塾大学をご卒業との説明もあった。

日本郵船は岩崎弥太郎が作った三菱グループでも最古の名門企業であった。そして、同い年の福沢諭吉の育てた卒業生を日本郵船に採用したのが、三菱グループと慶應義塾大学のつながりの始まりと聞いたことを思い出した。


参考

① 日本郵船とは? 守谷慧さんが勤務する海運会社は「カレーライス福神漬け」の元祖説も

Huffintonpost(2018.6.27、参考)

吉川慧

宮内庁は6月26日、高円宮家の三女・絢子さま(27)が、「日本郵船」勤務の守谷慧さん(32)と近く婚約されることになったと発表した。正式発表は7月2日の予定。

名門企業「日本郵船」の歴史


■ルーツは岩崎彌太郎の事業

日本郵船は明治初期に岩崎彌太郎が始めた横浜〜上海を結ぶ定期船をルーツにもつ。1885(明治18)年、三菱汽船会社と共同運輸会社が合併し「日本郵船」となった。

この年の暮れ、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任している。

創業以来、海洋立国として発展を目指した近代日本の歴史とともに歩んできた。白地に二本の赤いラインが引かれた通称「二引の旗」を掲げた日本郵船の船が、続々と大洋へと船出していった。


1893年にボンベイ航路、96年にヨーロッパ、北米、オーストラリア航路などの三大外国航路を開設。日本の貿易を運輸面から支えた。

日清戦争(1894〜1895年)、日露戦争(1904〜05年)、第一次世界大戦(1914〜18年)と三度の戦争を経て、日本を代表する海運会社として躍進。国庫からも多額の補助を受け、国策会社としての面も強かったが、次第に遠洋航路での地位を固めた。

■かつては「客船の郵船」とも


1926(大正15)年には東洋汽船の太平洋航路を引き継ぎ、旅客部門を強化。かつては「客船の郵船」と称えられたという。

日本郵船歴史博物館によると「客船サービスは世界トップクラス、特に食事のすばらしさには定評があった」という。

客船の厨房で鍛えられたコックが船を降りた後にその味を広く伝えたことから、帝国ホテルや上野精養軒と並び「日本洋食の源流」と評されるという。

日本郵船歴史博物館では「カレーライスに福神漬けというアイデア。日本郵船のあるコックの発想によるもの」と紹介している。

■戦争で船と船員のほとんどを失うも、戦後に復興


先の大戦では政府・軍に180隻以上の船舶を提供。建造途中だった豪華客船「橿原丸」「出雲丸」は、それぞれ空母「隼鷹」「飛鷹」に換装された。

徴用された船のほとんどは、5000人以上の船員とともに海底に沈んだ。

戦後、1951(昭和26)年に外洋航路を再開。2018年3月31日現在755隻を保有。世界有数の海運会社として現在に至る。

■横浜のシンボル「氷川丸」も所属していた


横浜・山下公園そばに係留されている「氷川丸」も元は日本郵船の客船だった。

氷川丸は1930年に横浜で建造されシアトル航路で活躍。戦前には秩父宮ご夫妻やチャップリンなど名だたるVIPをはじめ約1万人が乗船。

戦時中には海軍に徴用され、病院船になった。南方の島々などを周りながら、終戦まで生き残った。1947年まで傷病兵や復員兵を輸送に従事。機雷や魚雷をくぐり抜けて生還したことから「強運の船」と呼ばれた。

戦後はシアトル航路に復帰した後、1960年に引退。現在は横浜のシンボルとして市民たちに愛されている。

【参考文献】

・山川出版社「山川 日本史小辞典」
・旺文社「日本史事典」


② 三菱人物伝(参考)

黒潮の海、積乱雲わく 岩崎彌太郎物語

vol.14 福沢諭吉と彌太郎

若き日の福沢諭吉と彌太郎が店頭に飾ったおかめの面

大阪にある中津藩の蔵屋敷で福沢諭吉が生まれたのは天保5年。土佐の田舎で彌太郎が生まれた翌日だった。福沢 は蘭学を緒方洪庵(こうあん)に学び、ついで英語を勉強した。幕府の欧米使節に随行すること三度、著述活動を通じて西洋の制度・理念の紹介に努めた。

慶応3(1867)年の10月、長崎商会の主任だった彌太郎は長崎から船で京都に向かった。21日の日記に記している。

「晴、早朝下関を発つ。…壇ノ浦では歴史に思いを馳せる。船室に入って、西洋事情二冊を読了する。…夜、広島の御手洗港に着く。…風雨激しくなる」。福沢の著書『西洋事情』は当時のベストセラー。彌太郎、33歳。福沢への一方的出会いだった。

福沢は慶応4年、三田に慶応義塾を開設し教鞭をとる。その翌々年、彌太郎は大阪で海運業を立ち上げた。明治6年には三菱を名乗り、翌7年東京に進出した。

当時の最大手は日本国郵便汽船会社。態度大きくいかにも乗せてやるという風情。これに対し、新興の三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する。武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、彌太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したという。これを聞き、自ら両社の現場を視察した福沢は、「岩崎は商売の本質を知っている…」と塾生に語ったと言われる。

初期三菱には当然のことながら土佐出身者が多かった。石川七財(しちざい)、川田小一郎らに代表される幕末・維新の激動の中を生き抜いた仲間だ。ところがある時期から、土佐とは直接関係のない学識者が増えて行く。彼らは三菱の経営の近代化に大きな役割を果たす。

その背景には実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係があった。慶応義塾や東大から多くの人材が採用された。彌太郎は豪語した。

「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」

福沢門下生の活躍

明治8年、彌太郎の頼みに応え福沢が推薦して、荘田平五郎が入社した。翻訳係、すなわち西洋知識の導入担当である。まず、三菱の会社規則が作られた。冒頭で「当商会は…まったく一家の事業にして…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」と、社長独裁を明快に謳った。三井や住友と決定的に違うところである。

彌太郎自身は西洋の学問を学んでいない。にもかかわらず早々に複式簿記を採用し、原価償却の概念も取り入れている。福沢門下生の言うことを理解できた柔軟な頭脳は、おそらく長崎以来の外国商人との長い付き合いの中で培われたものであろう。

初期三菱には、荘田のほか、日本郵船の社長になった吉川泰二郎、後に日銀に転じて総裁にまでなった山本達雄、明治生命を創設した阿部泰蔵(たいぞう)ら、錚々たる福沢門下生がそろっていた。福沢は「実業論」の中で、経営者・岩崎彌太郎を、こう評価している。

「岩崎社長は…広く学者社会に壮年輩を求めてこれを採用し、殊に慶応義塾の学生より之に応じたる者最も多かりしが…社員おのおのその技量を逞しくし、良く規律を守りて勉励怠らず、社務整然として…他諸会社に対して特色を呈した…」

彌太郎の長男久彌も、幼少時、明治8年から3年間、卒業したばかりの豊川良平のもとで慶応義塾に通った。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2003年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。