西南戦争に参加した鎧の武者はアラビア馬に騎乗していた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西南戦争をフランスに速報したルモンド ・イリュストレ紙のイラストは想像して描いたものではなく、現地に突撃取材したリアリティーがあった。

これは西郷隆盛の姿の特徴に基づいて証明出来るが、取り巻きの古式な鎧を着用した武者達が高身長(180センチ位、参考)で頭が小さく見えることでも裏付けられる。

この高身長の武者が脚の長いアラビア種らしき馬に騎乗しているのが、イラストの右に描かれている。実は薩摩では江戸時代より前からアラビア馬を飼育していた歴史があった。

このイラストから西南戦争に関して具体的な情報を少なからず取り出す事が出来た。

Takamori Saigō et ses officiers à la rébellion de Satsuma (1877)

挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」フランス新聞雑誌(英語版)ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である。(wikiより)


参考

① 薩摩の馬はアラビア系を交配し、脚が長かった(参考)。

【あの関ヶ原の戦いでの敵中突破で有名な島津義弘の騎乗した名馬の名は「小紫(こむらさき)」。現霧島市福山にあった島津の牧場「福山牧」の産とされる。福山牧は1580~1863年にあった九州最大の馬牧場。今もその名が残る同市牧之原辺り周囲約50㎞に及び,最盛期には2千頭以上がいた。霧深く、牧草の繁茂に適していたようだ。当地の前田義人氏曰く『福山牧の馬は密貿易で取り入れたアラビア系を交配し,10~15㎝ほど脚が長かった。小紫も足が速かったのだろう』と。】

ちなみに現在のサラブレッド、優駿はアラブ馬を改良したものであることは周知の事実。なるほど,このような大型の四調者(じょうぶ)なアラブ混血馬に騎乗の、剽悍で聞こえた薩摩武者の強さは本物であり、他国が恐れをなしたのも当然のことといえよう。


② 福山牧(参考)



③ 鹿児島県の馬牧場の伝統(参考)


当時九州で最大といわれた福山牧では良馬育成のための様々な取り組みがあリ、 そのポテンシャルが明治以降の牧園の国立種馬牧場選定や後の農業大学校、塚脇の畜産試験場などに引き継がれ、霧島周辺は鹿児島県の畜産王国化の基になったのです。


④ 西南戦争を報じたルモンド ・イリュストレ紙のイラストは現地の本陣に記者が取材に入って描いた