西郷隆盛の兄弟、子孫など一族は目元に特徴があった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西郷隆盛の鮮明な写真がないために本当の顔をハッキリと確認出来ないが、目元に特徴があると指摘した。すなわち、彼の弟の西郷従道、末弟の小兵衛、実の男子である菊次郎、虎太郎、従兄弟の大山巌の五人の目元が皆、同じ非対称になっていた。例えば右目が大きな二重瞼、左目が一重瞼となっていた。

その程度で、まさか彼らの子孫には伝わっては無かろうと思っていたら、弟の西郷従道の次男の従徳も同じく目元が非対称だった。あまりに遺伝がハッキリしているのに、びっくりするどころか呆れてしまった。

幕末までの武家社会は同じ階級の家柄間で通婚しており、嫁のやり取りや養子のやりとりに関し血族結婚の確率が高かった。ルーツを遡れは一人の男に収斂することになる。長州藩の萩の吉田松陰の家系についても、杉家、玉木家、吉田家、乃木家などは互いに行き来する血族であった。だから、男子皆んな同じ特徴を持っていてもおかしくない。他の子孫についても、写真が現存しておれば確認して見たい。

だから、現在の子孫達は自由恋愛で血族結婚では無いようで目元の非対称と言う特徴は無くなっているようだが、西郷隆盛はこの遺伝的特徴を例外となることは無く持っていると断言出来る。錦絵の西郷隆盛の目元は予想の通り非対称になっている(参考)。

太っていなかった時代の西郷隆盛の想像肖像画、小林清親《鹿児嶋征討戦記》〔太田記念美術館蔵〕をベースにする。

さらに、西郷従道の子供達、西郷従道侯爵家の実子達は揃って西郷隆盛に似て高身長で目元にも特徴があった(参考)。


参考

① 西郷従徳、従道の次男(wikiより)


1878年(明治11年)10月21日 - 1946年(昭和21年)2月6日は、日本の陸軍軍人政治家華族貴族院議員、侯爵

西郷従道の次男として生まれる。西郷隆盛の甥にあたる。1899年11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍少尉任官。最終階級は陸軍大佐。父の死去により、1902年8月9日、西郷家を継ぎ侯爵となった


② 西郷小兵衛とは~高瀬の戦いにて銃弾に倒れた西郷隆盛の末弟

幕末維新風雲伝(2018.6.20、参考)


西郷小兵衛(さいごう-こへえ)は、薩摩藩士・西郷吉兵衛の4男として1847年10月11日に生まれました。幼名は彦吉です。母は母は満佐(椎原国紀の娘・まさ)で、兄に西郷吉之助(西郷隆盛)、西郷吉二郎西郷従道がいます。長兄の西郷隆盛との年の差は19歳で、兄からとても可愛がられたと言います。正式な名前は西郷隆武です。西郷小兵衛の妻は有馬糺右衛門の娘(大山巌の姪)・松子ですが、最初は「ます」と言いました。しかし、兄・西郷吉二郎の妻と同じ名前だった為、マツに改名したようです。

人格沈重にして思慮深い人物であったとされ、16歳のとき御代官所勤務となりましたが、兄・西郷隆盛の罪により勤方差控となったようです。

1868年、西郷小兵衛は戊辰戦争では八幡の戦いにて初陣を果たしています。その後は一番隊として江戸城にも進軍し陸奥・白河など東北での諸戦でも戦い、明治2年(1869年)2月29日には分隊長となりました。

明治新政府には出仕しませんでしたが、明治2年に京都の春日潜庵に入門し、明治6年にはアメリカに留学。日本に戻ると加世田郷(南さつま市)副戸長となり、西郷隆盛が下野すると兄に従いました。

そして、明治10年(1877年)、西南戦争に加わると、薩軍第一大隊第一小隊長を務めました。1877年2月27日、肥後の高瀬河南(熊本県玉名市)での高瀬の戦いにて、旗を持って川岸に立っていたところを対岸の官軍より銃弾を左胸部に受け戦死しています。享年31。

この知らせを受けた西郷隆盛は号泣したと伝わります。倒れた小兵衛を担ぎ出すため、近くの橋本家から雨戸を一枚貰い受けたと言います。その橋本家には、小兵衛夫人の松子からの礼状が6通現存すると言います。そして、薩摩三番大隊一番小隊長となっていた辺見十郎太(へんみ-じゅうろうた)が、西郷小兵衛の遺髪を鹿児島の西郷家へ届けています。この時、西郷隆盛の夫人・西郷糸子より、小兵衛の袴下が形見として、辺見十郎太に与えたと言われています。

妻の西郷松子は明治29年に亡くなりました。

最近の研究では、戦死した西郷小兵衛の遺体は、熊本県熊本市本山にある香福寺(こうふくじ)に仮埋葬された事を示す史料が発見されています。伝承によると、兄の西郷隆盛が自ら菊池川の下流を渡って遺体を連れ帰ったとも言います。西郷隆盛の妹・琴の四男である市来政方が改葬したようで、現在は、鹿児島市の南洲墓地にて西郷隆盛らと共に葬られています。

太平洋戦争の空襲で焼けた鹿児島市立教育参考館には西郷小兵衛の写真が所蔵されていました。


③ 西郷隆盛を中心にしたの家系図(参考)
 
ここだけでも、3人の女子が従兄弟結婚をしている。


④ 大山巌の家系図(参考)

大山家に西郷家から養子が入っており、西郷隆盛と大山巌は男系の従兄弟関係になる。


⑤ 西郷隆盛の本当の顔は目元に特徴があった。