西郷隆盛は日本画家に写生されるのは嫌いではなかった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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上野公園の西郷隆盛の銅像が本人に似ていないことは、当初から指摘され、改鋳、すなわち作り直しまで考えられていた!オリジナルのキヨッソーネの肖像画そのものに不満が出ていた!

その原因は、西郷隆盛の印象が会った人毎に異なって、ある人は大きな目をし、別の人は小さな目をしていたと印象づけられて、西郷隆盛のイメージが定められなかった為である。

どうも、ある職業の人達を除いて正面からマジマジと見た人は居ないようだ。キヨッソーネの場合、顔面の右側から見た顔を描くのが得意で、左側を見ていなかったようだ!モデルの西郷従道や大山巌の顔面左側を見たらビックリしたはずだ!

唯一、ある種の画家達が西郷隆盛を正面から描いていた。西郷隆盛は写真を撮られるのが嫌いだったらしいが、日本画家(錦絵師、浮世絵師)に写生されるのは嫌いでは無く、陸軍大将になって以降の肖像画や絵なら沢山ある。特に、肖像画としての錦絵が西郷隆盛の居ないところで勝手に想像で描かれたとは言い難い、一般人や同僚の政治家や軍人が気がつかなかった特徴を正面から捉えていた。

すなわち、西郷隆盛の肖像画には、全てでは無いが、左右の目が非対称で右目が二重瞼で大きく、左目が一重瞼でやや小さく描かれていた。

だから、西郷隆盛の肖像画を作るときに、西洋人のキヨッソーネに直接に頼まず、日本画家、例えば月岡芳年や小林清親に依頼するか、相談しておけば何らの問題も起こさなかった。私なら小林清親に依頼すれば、下の参考にある②の錦絵以上の肖像画が出来たはずた!

この絵は、髭を剃らないと判別出来ないが、弟の西郷従道にソックリと言えそうだ。それから、現代の俳優で言えば高橋英樹に似てなくもない。


雑談

錦絵の西郷隆盛はほとんど太っていない。新政府に出仕した明治4年から激太りし、定説では明治6年に明治天皇からの指示でダイエットしたことになっているが、征韓論の政争を描く錦絵もそれ以降も太っていない。ドイツ人医師のホフマンが明治4年には来日しており、到着後直ぐにダイエットを開始したと考えられる。

ダイエットが完了してカッコ良くなったので、記念にそれまで作らなかった写真に代わり、錦絵を作ったとも考えられる。そう考えると写真が無くても困らない。


参考

① 板垣退助は上野公園の西郷隆盛像を真顔にすることをこだわっていた(参考)

板垣がこだわった点は、キヨソーネ作の肖像画や高村光雲らの作による上野公園の銅像が「まるっきり似ていない」ということにあった。

板垣は「斯様な真像は一あッテ二なきものでありますからどうか之(眠雷作の『西郷隆盛肖像』)を以て上野の銅像を改鋳するまでに運びたいと思ッて居ります」と発言していることからも分かるように、この復元肖像をもとに、上野の銅像の改鋳まで計画を行っていた。西郷を実見したことのない我々にとっては、どこがどう似ていないのか分からないが、大きく印象が異なるのが目の部分であったらしい。

今日われわれが目にするの多くは、太い眉とくっきり二重の大きな目であるが、「目は一重」で「眉は薄い」もっと和風な顔であったという証言もある。しかし、今日残されているキヨソーネ作の肖像画以降の各種肖像は、目の部分は西郷隆盛の弟・従道を参考にしており、従道の写真を見ると、「目は二重」で「眉は太い」。兄弟で全く真逆(似ていない)ということがあるだろうか。しかも、キヨソーネが西郷隆盛の肖像画を描く際に西郷従道の目を参考にしたのは、その部分が「似ている」と言われていたからに他ならない。

また、実際に会った人の多くが証言する「瞳は大きく炯々としていた」などの表現は「一重瞼」であれば、目が細くなり、あまり大きく見えないのではないだろうか。ここで、「目は一重」で「眉は薄い」という説に矛盾が生じるのである。キヨソーネ作の西郷隆盛の肖像画を見た板垣が、西郷従道に対して「似ていない」ことを嘆くと従道は笑って「外人が描くと西洋人くさくなります」と答えたとあるので、彫りの深い顔立ちなどは誇張されたもので、もっと平坦な顔であったのかもしれない。


② 小林清親による錦絵新聞の西郷隆盛、発行年不明

太っていないので、ダイエット後の征韓論の政争で下野する明治6年10月直前あたりの時期の肖像か!?明治6年に明治天皇からダイエットの指示があったとされるが、実は以前、明治4年から5年初頭にはダイエットに入ったと考えた方が無理が無い。

この肖像画での額の毛髪との境目に注目すると、読者から見て正面右上の角が禿げ上がっている。キヨッソーネの肖像画や類似の洋画では、この禿げ上がった箇所は左右反転している。また、顎に着目すると口髭で隠れてはいるが、従道、男子達そして大山巌の写真などと同じ特徴として尖って見える。これら二つの特徴からも、この錦絵にはリアリティが存在する。

この肖像画が征韓論の政争に敗れて下野する直前の西郷隆盛と思われる。記念の肖像画として相応しい上品さと精細さを兼ね備えた、リアリティのある錦絵となっている。この肖像画が錦絵新聞として東京府内に配布されることは、西郷隆盛としては最大の名誉となろう!

小林清親《鹿児嶋征討戦記》〔太田記念美術館蔵〕

小林清親(1847-1915)は、将軍直属の御家人として15歳で家督を継ぎ、鳥羽伏見の戦いに参戦するなど、時代の大きな変化を肌身に感じる青年時代を過ごしました。幼少より絵が好きだった清親は、江戸から東京に変貌を遂げた街の風景を、光と影の表現に工夫を凝らした“光線画”と称される木版画として発表しました(参考)。


③ 市川団十郎の演じる西郷隆盛、明治10年発行

左目は白目で瞳が無い。極度な藪睨み!


④ 錦絵新聞の西郷隆盛、明治11年発行

まだ太っているので、明治6年より以前の姿か!?



⑤ 西郷隆盛、発行年不明

西南戦争時?



⑥ 錦絵新聞の西郷隆盛、明治21年発行

ダイエット時の愛犬との散歩、、、最も上品な錦絵となっている。




⑦ 西郷隆盛、発行年不明

絵師: 月岡芳年
作品名:「西郷隆盛」「永山矢一郎」


⑧ 西郷隆盛の真顔