旧山陰道の旧宿場町の樫原と長州藩 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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京都市西郊の樫原(かたぎはら、旧山陰道の旧宿場)に維新殉難志士墓(左下の黄印)がある。旧山陰道と物集女街道(もずめかいどう)の交差点(ピンク印)から旧山陰道に沿って西に行って藪の中にあった。

墓標には、左から「長州  楳本僊之助(うめもとせんのすけ)」「薩州  相良(さがら)新八郎」「薩州  相良頼元」と刻んである。側面には禁門の変の当日の「元治元年七月十九日戦死」とある。

禁門の変で敗れて逃走中の長州藩士楳本僊之助と薩摩藩士相良頼元・新八郎兄弟の3名が,幕府方の追手である小浜藩士に斬殺された。この斬殺された地が、小泉仁左衛門宅の東隣の『勤王家殉難之地」の石碑が建っているあたりであった。旧山陰道と物集女街道(もずめかいどう)の交差点から西に直ぐ(ピンク印)のところである。

実は油商の小泉仁左衛門は長州藩と京都周辺の間の物産交易を通じて、尊王攘夷の資金を作る勤王家であった。


参考

① 長州方に属した薩摩脱藩士

■禁門の変で敗走中、討死

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相良新八郎、同頼元らの供養墓=京都市西京区樫原

禁門の変(甲子かっし戦争)は幕末史上の大事件のひとつである。

元治元(一八六四)年七月、上京した長州藩兵約一五〇〇人は攘夷じょうい国是確定の嘆願、三条実美ら五卿の冤罪えんざい免訴などを掲げた。長州藩は一年前の八・一八政変により京都から追放されていたことから、失地回復をめざしていた。

しかし、交渉は決裂し、十九日、戦端が開かれた。禁裏御所に西と南から攻め寄せた長州藩兵は御所内に突入する勢いを示したが、薩摩藩や会津藩などの反撃によって撃退され、多数の死傷者を出して敗走した。

このとき従軍した長州軍のなかには、藩士だけでなく、多数の浪士たちが加わっていた。久留米藩の真木まき和泉、土佐脱藩士の中岡慎太郎、土方楠左衛門(のち久元)、池内蔵太くらた(のち亀山社中)などが知られている。

じつは、長州軍に薩摩藩の脱藩士が少なくとも二人含まれていたことは、ほとんど知られていないだろう。いうまでもなく、当時、小松帯刀と西郷吉之助などが率いた薩摩藩兵は長州藩兵を迎え撃つ朝廷方の主力だったから、敵方に薩摩の脱藩士がいたのは意外というほかない。

京都市西郊の樫原かたぎはら(山陰道の旧宿場)にその墓があるというので探してみた。山陰道と物集女もずめ街道が交わる一帯の竹藪たけやぶで、ようやく三基の供養墓が並んでいるのを見つけた。

墓標には、左から「長州 楳本うめもと僊之助せんのすけ」「薩州 相良さがら新八郎」「薩州 相良頼元」と刻んである。側面には「元治元年七月十九日戦死」とあった。まさしく禁門の変の当日である。

薩摩出身の相良名字二人は兄弟だという。当時の長州藩に身を投じたのだから、相良兄弟は熱烈な攘夷派だったのだろう。彼らの出身地、身分、家格その他の履歴を少し調べてみたが、よくわからなかった。

わずかに「幕末維新全殉難者名鑑」(Ⅰ)に記載があった。そのうち、相良頼元の項には「相良頼元 薩摩藩士。脱藩して宇都宮藩に走り、のち長州軍に参加、元治元年七月十九日洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。現地に墓。靖国」とある。

相良兄弟は脱藩したのち、宇都宮藩士と称して長州藩に身を投じたのかもしれない。

なお、長州藩の楳本僊之助(仙之助とも)は同藩諸隊のひとつ、集義隊の旗手をつとめたという。やはり相良兄弟とともに小浜藩兵と戦い、戦死している(右同書)。集義隊は文久三(一八六三)年十月、周防小郡おごおりで組織され、桜井慎平が隊長で五〇人の隊士がいたという(「修訂防長回天史」五)。

気になるのは小浜藩である。同藩は譜代大藩(一〇万石)の酒井家。このとき、幕府の命で樫原に陣所を置いて警衛の任についていた。その史料にわずかに記事があった(「小浜市史 藩政史料編三」一六一三)。

「(七月)十九日暁、お達しにより樫原へ押し出していた。(この方面では)戦争はなかったけれども、長州人の落武者だろうか、陣所へ向かって来る者五人を討ち取り、一人を捕らえた。当方には死傷はなかった」

この五人の戦死者のなかに、相良兄弟と楳本が含まれていたと思われる。

薩摩藩では他藩とくらべて、藩の統制が厳しく脱藩者は少なかった。そんななか、敵対する長州藩に身を投じた二人の心境はどのようなものだったのだろうか。
 (歴史作家・桐野作人)


② 勤王家殉難之地(参考)

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勤王家殉難之地(中央の石碑)、小泉仁左衛門宅跡(左の塀)

岩井武俊『維新の史蹟』(1939星野書店刊)によれば,山陰街道と物集女街道の交叉点にあたるこの地樫原で,元治元(1864)年7月19日の禁門の変で敗れて逃走中の長州藩士楳本僊之助と薩摩藩士相良頼元・新八郎兄弟の3名が,幕府方の追手である小浜藩士に斬殺された。村人はこれを共同墓地に手厚く葬った。ただし薩摩藩は相良兄弟は自藩士にあらずと否定したという。

この石標は,楳本・相良兄弟の終焉の地を示すものである。相良兄弟については薩摩藩を脱藩,宇都宮藩士と称し長州藩士と行を共にしていたという説もあり,履歴が判然としない。しかし明治33年5月5日をもって「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社へ合祀するという陸軍省告示(4月21日付)が出ているので,薩摩藩士であったことはたしかなようである。

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③ 小泉仁左衛門(参考)

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小泉仁左衛門宅跡(左の塀)と勤王家殉難地(右の石碑)

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樫原は旧山陰街道沿いの、大名行列が入洛する直前の宿場町である。この地で代々続く油商小泉家の当主・仁左衛門は、幕末の頃、長州藩御用達の油商を営んでおり、展示している油壺はその当時のものである。

仁左衛門は尊王攘夷を論ずる私塾を開き、森田節斎や梅田雲浜など進歩派の学者や武士も出入りしていた。安政4年(1857)長州藩留守居役宍戸九兵衛らが仁左衛門宅を訪れている。

私塾を通じて長州藩士と親しくなるにつれ、尊王攘夷実行のための資金を得るために、長州藩との物産交易を計画するようになる。ついに長州物産販売、山城丹波物産購入の仕事を小泉家で行うこととなった。長州より入るものは米、塩、蝋、干魚、紙など、京からは呉服、小間物、菜種、材木などを送り出していた。特に米、塩、紙は「毛利の三白政策」として有名であるが、蝋を加えて四白とも言われている。殖産興業によって得られた利益は、やがて長州藩全体の兵制改革を実施する経済的な背景にもなった。

元治元年(1864年)に「蛤御門の変」が起き、長州藩が薩摩・会津の幕府軍に敗れ、長州藩士梅本遷之助ら3人の若き志士達も、この付近の樫原札の辻で殉死している。