鹿児島に戻った西郷隆盛は身軽に動ける位にスマートになっていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治4年、西郷隆盛は東京にいた頃は持病と激太りで動けなかったが、糖質制限、下剤、愛犬を連れた運動を併用したダイエットのお陰でスマートになった(参考)。

明治6年、征韓論が受け入れられず下野して、故郷の鹿児島に帰った後に、愛犬を連れた運動などのほか、「さつまいもを2俵買って馬に背負わせて運搬した」などのエピソードがあるくらい、身軽に活動ができるようになったようだ。


参考

① 西郷隆盛の持病(参考)

フィラリア感染症から象皮病を併発、陰嚢が肥大化

沖永良部島での獄舎生活は、衛生環境や栄養状態も悪く凄惨を極めた。身長179cm、体重108kgの巨漢も、見る影もないほどに痩せこけた。

しかも、バンクロフト糸状虫という寄生虫に侵され、リンパ系に大きなダメージを受ける風土病・フィラリア感染症を発症。その後遺症から、皮膚や皮下組織が象の皮膚のように硬くなる象皮病を併発し、肥大化したカボチャ大の陰嚢水腫に苦しんだ。

晩年は、陰嚢がじゃまになって馬に乗れなくなり、駕篭に乗っていたという、まことしやかな風説がある。


② 西郷隆盛の明治新政府に参考した頃の健康(参考)

身長180cm  体重110kg  BMI値34  肥満度2、極度の肥満の西郷隆盛は、はじめて西洋医学を使いダイエットをしたと言われる人物です。

40代の頃は比較的にスリムだった西郷さん、44歳を過ぎた頃から激太りしてしまいました(明治4年に上京してから急激に太った)。

陸軍大将になった(明治4年に上京、陸軍が出来たのは明治5年から)西郷隆盛は、体に異変が起き始めていました。馬にも乗れない、軍の指揮官にあるにも関わらず輿(コシ)で移動していました。更に、行進がつきものの軍隊でも早歩きができませんでした。

その原因は肥満!ですが周囲の人は心配していましたが陸軍大将には誰も何も言えませんでした。明治天皇が東京大学で内科学の講師となったドイツ人医師のテオドールホフマンに西郷の健康を管理してもらう事になった。(ダイエットの開始)


③ 西郷隆盛の下野後の生活(参考)

西郷隆盛の下野に同調した軍人・警吏が相次いで鹿児島県に入ると、無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者が溢れる状態になった。

そこで、これを指導し、統御しなければと有志者が西郷隆盛にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、明治7年6月頃に旧厩跡に「私学校」が作られた。


私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。

しかし、西郷隆盛は余り関与せず、別府晋介・辺見十郎太・河野主一郎・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らの私学校党が県政を牛耳るようになると独立勢力と化した。

なお、寺山に開墾地を拓き、80名の若者に農業を学ばせ、吉野開墾も行っている。

西郷どんも、この開墾を手伝ったようで下記のような逸話もある。

吉野開墾地から馬を引いて帰る途中、帯迫にある加治屋助八の家で、種子用のさつまいもを2俵買って馬に背負わせした。しかし、馬の操作に誤り、馬が1.8メートル程下の畑に転落してしまったと言う。

この場所は「駄馬落」(だばらく)と呼ばれバス停の名称にもなっており、現在、駄馬落の跡の石碑が建立されている。


こんな、西郷どんの失敗とも言える逸話の地にも石碑があるので、西郷隆盛はさすがにスゴイ人物であるとしか言いようがない。


④ 西郷隆盛の最後の確認

西南戦争での最後に城山で介錯されて頭と胴体が別れ、頭部だけを大事にもち去った。この後、頭部と胴体を確認する段階で、頭部は西郷隆盛の顔の特徴ですぐ分かったが、胴体の方は陰嚢水腫を患っていた陰嚢の大きさで決定したと言う。すなわち、他の人と区別できる程、巨体ではなかったことになる。西南戦争当時の薩摩士族は皆、精悍と言い得るくらいであり、太ってはいなかったと考えられる。