西郷さんは沖永良部島で流されていた時に痩せてスタイルが良くなっていたが、明治維新政府に呼ばれた明治4年2月頃から美味しい食事と運動不足などで見る見る恰幅の良い巨体になっていった。
明治4年に来日したドイツ人医師ホフマンを明治天皇が西郷隆盛に紹介してダイエットを始めた。そのダイエットの時期は通説では明治6年となっているが、同年6月に征韓論と言う政争が起こっており、同年10月には鹿児島に戻ったので、この様な時期に糖質制限ダイエット、下剤の服用、そして犬を連れた兎狩りやノンビリした散歩などを組み合わせたダイエットが出来たであろうか?
ところで、養豚業が明治4年から6年の間に一時流行り、この時期なら容易に安定的に豚肉を入手出来るので、豚肉を主食とした糖質制限ダイエットが可能である。もちろん、明治6年6月以前なら政争も無い安定した時期にあり、下剤の服用や、犬を連れた兎狩りや散歩なども可能である。
だから、明治5年6月の大阪造幣局の明治天皇の行幸において、明治天皇と西郷隆盛と近衛兵が映るとされる例の写真に見える左端の激痩せで腹の膨らんだ人物が西郷隆盛と考えられる。その傍証として運動不足解消のための愛犬と思しき洋犬が近くに寝そべっている。
私のダイエットの経験では一月4キロで8ヶ月弱で30Kg程の減量は達成出来る。大阪造幣局での写真の西郷隆盛は腹は未だ膨らんだままで減量途中ということで、時期は理にかなう。私のダイエットの経験でも、顔は真っ先に削げおちるが、腹の皮下脂肪は中々減らない。豚肉を使った糖質制限ダイエットでは、体全体の皮下脂肪を削減出来るらしいが、一様ではなかろう!
以上より、もし大阪造幣局の写真が正しいなら、腹の出た人が西郷隆盛であろう。顔が不鮮明で確定的には結論を出せないが、写真以外の資料は史実として認められている。
また、西郷隆盛は陰嚢水腫で大きなキンタマ袋を下げており、首から吊り下げていたことが知られている。だから、私にはズボンの社会の窓周辺がふっくら膨らんでいたようにも見える。いずれ、写真原本の詳細な観察が待たれる。
雑談
御親兵・近衛兵とは?
鳥羽・伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置されたもの。御親兵は廃藩置県とともに国軍となるが、徴兵令の施行とともに、陸軍と御親兵に別れ明治5年には近衛兵と改称された。
したがって、明治5年6月当時は正しい呼称は近衛兵です。陸軍は天皇の護衛はしません。ただし、制服はそのまま、変更無く着用したとする方が自然である。
少なくとも言えるのは陸軍又は近衛兵のどちらかで、陸軍の兵で無ければ、近衛兵である。
●西郷は明治4年1月に上京、同年2月13日に親兵を結成
●御親兵徽章制定(明治4年)
●近衛兵創設【つまり御親兵から改組】(明治5年4月24日)
●大阪造幣局での明治天皇の行幸の写真(明治5年6月)
雑談
ダイエットの為の犬との散歩について、犬種はなんだったのか?
開国してから、洋犬が大量に輸入され、純粋な和犬は少なくなり、隣近所からもらう犬は大体、雑種だったようだ。すなわち、洋犬との雑種がほとんど!
薩摩犬も当時、純粋種が多くいたかどうか?薩摩国内なら純粋種はいたかも知れないが、東京府内なら、和犬はおらず、洋犬かその雑種と考えて差し支えない。
現在、薩摩犬と呼ばれるものは、掛け合わせて作った。
雑談
西南戦争時の激痩せした西郷隆盛のルモンド紙のイラストについて、イラストの正確性は?
明治時代の西洋のイラストは書き方の技法としては、当時の日本の絵と比べ極めて精細・写実的ですから、最も信頼出来る。ルモンドと言う一流紙が空想で記事は書かないと思います。すなわち、ルモンド紙に掲載された西南戦争時の西郷隆盛の激痩せのイラストは正しいと思う。
大体、日本の定説では「西郷さんは激痩せでは無い」と思い込んでいるのに、ルモンドただ一社が激痩せのイラストを載せるでしょうか!?海外の冷徹な目で描いたイラストと思われる。
雑談
Q. 何で50年近く生きて、一枚の写真も無いのかね?
A, 私は、痩せた西郷隆盛を見たくない日本国民のせいで、恰幅の良い西郷隆盛の絵だけが残され、唯一ルモンドの痩せた西郷隆盛のイラストが残ったのだと思われる。
痩せた西郷隆盛を探せばどこかにある!
大体、定説では西郷隆盛は薩摩犬を飼って居たと言うことになっているが、上野の西郷隆盛像の薩摩犬以外の絵では、ビーグル犬などの洋犬が描かれている。当時の薩摩には薩摩犬が居たとは思われるが、東京府内には薩摩犬はおらず、洋犬か雑種だと思われる。
このように、我々庶民の願望で西郷隆盛像か出来上がっており、真実の西郷隆盛の姿が捨て去られたと思われる。
雑談
明治6年にドイツ人医師ホフマンによるダイエットが始まったとの説について?
朝鮮使節を志願する前の明治6年5月、西郷は持病の「激しい胸痛」が悪化して大侍医に「中風」の危険があると診断された。これを案じた明治天皇がドイツ人医師ホフマンを彼のもとに送り、肥満解消のための瀉薬(下剤)療法と食事制限が始まった。この結果、1日5、6度の下痢に悩まされるようになった(参考)。この事例を根拠にダイエットが始まったとしているようだ。
しかし、ダイエットの経験からすると、これは食べない為に起こる便秘に由来する副作用と思われる。しかも、この直後の6月からの征韓論の政争が始まるので、政争の議論と並行してのダイエットは難しいと思われる。さらに、10月には鹿児島に戻ることになる。
ダイエットの大部分は5月より前にはほぼ完了していたと思われる。犬との散歩などゆったりとしたダイエット生活を考えると、開始はずっと前からだったとも考えられる。
明治6年当時の東京では、6月対朝鮮外交問題が取り上げられた。そして、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団のトップ3人らは時期尚早としてこれに反対、10月には三条実美が病に倒れ、最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野した。
雑談
西郷隆盛がしたダイエット療法の中に糖質制限ダイエット法があったのは確実だった。コメなどを食べずに豚肉食など糖質や脂質を制限した食事を実行するものである。
当時の豚肉食について、日本では明治4年から2年間ほど、全国で養豚が流行した。しかし明治6年に人口密集地における豚の飼育を禁止する法律ができ、獣肉には寄生虫がいるという風評も相まって養豚業は一気に衰えた。
すなわち、西郷さんが一時的(明治4年から6年の間)に豚肉を東京で幾らでも食べられた。
参考
① 西郷隆盛のダイエット記録「BMI値=34 肥満度2」さあどうする?
(偉人の健康診断)
西郷隆盛 身長180cm 体重110kg BMI値 =34 肥満度2
極度の肥満の西郷隆盛は、はじめて西洋医学を使いダイエットをしたと言われる人物です。
40代の頃は 比較的にスリムだった西郷さん、
44歳を過ぎた頃から 激太りしてしまいました。
陸軍大将になった西郷隆盛は、体に異変が起き始めていました。馬にも乗れない、軍の指揮官にあるにも関わらず輿(コシ)で移動していました。(注: キンタマが巨大に膨らむ陰嚢水腫もあった) 更に、行進がつきものの軍隊でも 早歩きができませんでした。
その原因は肥満!ですが周囲の人は心配していましたが陸軍大将には 誰も何も言えませんでした。
その診断の結果を叔父宛の手紙に記していました。
(推原与右衛門 あての書筒より)
「診断では脂肪分が増えて 血管を防ぎ 血の巡りが悪くなる よほど内臓も迷惑しているらしく 全て脂肪を取ることが必要とのことです」
これは、脂質異常症 コレステロールや中性脂肪が増えているということです。
その他に、血圧が高い・睡眠時無呼吸(寝ている間に息が止まっている)など 色々な生活習慣病を患っていました。
⑴ ホフマンからは糖質制限ダイエットを西郷隆盛に指示が出ました。
(推原与右衛門 あての書筒より)
「食べ物は麦飯を少しずつ 鶏肉など油が少ないものを食べ なるべく米や穀物を取らないようにとの」
肉は脂肪になりにくく 穀物が一番に脂肪になりやすい
⑵ ホフマンが次に指示をしたのは、下剤の服用でした
カルルス塩と言う チェコボヘミア地方の温泉水で作られた下剤を処方し 毎日服用されるようにしました。
これは 食べたものを消化吸収させないで全部便に流してしまう。また 便が溜まっていると肥満の原因に考えられる宿便が肥満の原因だと言う考えです。下剤ダイエットが非常に危険なダイエット法で。これは今の時代では危険だと警鐘しています。
⑶ 最後に指示をしたのが
朝と夕方に散歩をする運動治療です。西郷の住んでいる場所は、散歩できる環境ではありませんでした。弟の家に引っ越し散歩、ホフマンの言いつけ通り、朝と夜に4km 合計 8km 犬(薩摩犬)散歩するようになりました。(注: 上野公園の銅像以外、絵では洋犬)
歩数計で一万歩
その散歩姿は 着流し姿で 犬と狩りに行く。そう 上野にある 西郷さんの銅像姿です。
一万歩とは、厚生労働省が生活習慣病で推奨している。1日の身体活動量 = 歩数計で9千歩の運動量です。
西郷さんが 行った健康ダイエットは糖質制限 下剤 散歩
一ヶ月手紙によると(推原与右衛門 あての書筒より)
「今から 2ヶ月も経てば必ず病気が治ると口を極めてご不満申します。全開するようにいたしますのでご安心下さい。」しかし、記録はここまで・・・
果たして 西郷さんのダイエットに成功したのでしょうか?この後の資料は残っていないそうです。
これも歴史の謎となっています・・・
② 西郷隆盛のダイエット法、異説(参考)
1日5回下剤を服用 ひまし油を下剤として飲んでいたそうです。それに糖質制限ダイエットと散歩を併用した。
③ 西南戦争当時の西郷隆盛(参考)
1877年(明治10年)、西郷は蜂起し『西南戦争』が勃発します。フランスの新聞社『ルモンド・イリュストレ 』は速報記事を出し、そこに西郷軍の様子を絵にしています。
中央で座っているのが西郷隆盛ですが、今まで紹介したものに比べてずいぶんと痩せていますが、これには理由があるのです。
その結果、1日に5回も下剤を服用する過酷なダイエットを決行、数か月後には慢性的に痛みがあった身体も良くなったようです。
このように過酷なダイエットと戦闘が影響して激ヤセしていた事が考えられます。
さらに、子供時代の怪我がもとで右腕が不自由になっていることも判別できる(参考)。
牢に入れられていた。
大阪造幣局・明治天皇ご来臨のため近衛兵整列(1872年)(参考) 大阪の鎮台の二小隊も加わっている。
造幣局の記録では西郷隆盛と言うことになっているが、専門家によると本人は写真嫌い、体格ももっと大きかったはずで、本人では無いと否定している。
この写真をよく見ると、左端の人物のみが菊の御紋の錦の旗を持つだけでなく、サーベルも下げている。他の人物でサーベルを持っているのは右の明治天皇の一行のみであった。そして、明治天皇の視線の先は左端の人物となっている。
写真嫌いで別人に代わってもらったと言うのは、明治天皇に対して失礼過ぎるのでは無かろうか!?
この左端の人物の体型について、写真の左から比較出来る範囲の兵士の中では、身長は銃を持った兵士達と同じ程度であるが、肥満か何かによる腹の出具合は一番大きい。これに対し、他の兵士達はウエストがキュとくびれている。
西郷隆盛が存命中の国の兵士達は幕末の官軍出身の選抜に合格して残留した者たちで、それも明治天皇の前に並ぶことの出来るエリート、すなわち近衛兵だったはずである。白い羽根のようなものを付けた帽子がエリートの証と思われる。また、同時期に作られた陸軍と共に、当初は体格が西郷隆盛に勝るとも劣らない者達だったと思われる。
写真右端の真ん中の人物が明治天皇か!三人ともサーベルを下げている。
ところで、この時期の西郷隆盛は肥満のダイエットに苦しんでおり、西郷隆盛は極めて巨体であったとは言い切れない。(注: お雇いドイツ人医師ホフマンは明治4年に来日しており、また西郷隆盛は明治6年に鹿児島に帰るので、明治4年から6年の間の明治5年の時期あたりにダイエット治療を受けた可能性が大きい)。しかし、急激なダイエットの副作用の特徴として、顔面は激痩せ、腹部の脂肪が残留する。
また、フィラリア感染症から象皮病を併発して陰嚢が肥大化していた。写真では陰嚢の肥大化までは確認出来ないが、白のベルトより下部がふっくらしていることは言えないことは無い。普通の肥満ならベルトより上の腹が膨んでハミ出る。
⑥ ダイエット時期
・ある説その1(参考)、、、東京にいた頃
自然が豊富だった東京の山登りをして兎狩りを趣味とするようになりました。
ウサギ狩りには犬が数頭必要なので西郷は犬を飼い、東京郊外の駒場野あたりに出かけた。