鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画(wik iより)
西南戦争に臨む西郷隆盛は上のような絵では本営の真ん中にカッコ良く座っている。生やしたことがないと云われる口髭を蓄えた西郷隆盛は他の人とそんなに変わらないスマートなカッコ良い姿であった。日本で書かれた日本人画家の西南戦争に関する絵は、大体皆、勇ましいものばかりで凄惨さは伺えない。
これに対し、フランスのルモンド・イリュストレ紙においては、参考①にある例のイラストの真ん中に激痩せした西郷隆盛を据えている。
ルモンド・イリュストレ紙の幕末・維新・明治期の日本の事件に関わる報道イラスト(写真相当の手描きの絵)は、日本人が見たら日本らしくない風景や人々が書かれていおり、日本で写生せずにフランス本国で想像で描いたと直ぐ分かる。しかし、極端におかしいと判断されるものは無く、例のイラストを除いて激痩せの人とか激太りの人とか極端な人は描かれていない。もちろん、イラスト全体としては正しい情報になっている。
すなわち、例のイラストは西南戦争に臨む西郷軍について描いたものであるが、洋式の軍服を着た激痩せの西郷隆盛と古式の鎧を着た精悍な薩摩武士の奇妙な軍隊となっている。まあ、この程度ならフランス人は奇妙には思わないだろう。これに対し、このイラストの中での激痩せと言う特徴は、いい加減には描けない極端なもので、文化の異なるフランス人でもすぐ気付くものである。激痩せが西郷隆盛に関する最も重要な情報であった。西郷隆盛の激痩せの情報が東京駐在員からフランスに届けられたとすると、下野する明治6年10月以前のダイエットしていた時期の姿に基づいたものと考えられる。
日本に残るほとんどの西郷隆盛の絵、銅像は丸々と太り、ダイエット中の愛犬との兎狩りや散歩においても痩せた気配も無い。もしこれが真実なら、想像で描いたであろう例のイラストも丸い西郷隆盛になっているはずである。
どうも、西郷隆盛に関しては日本では判官贔屓が働いて、恰幅が良く貫禄のある絵や銅像ばかりが西郷隆盛とされたようだ。彼が太って庶民の目についた時期は、ダイエットで愛犬を連れて兎狩りや散歩に出ていた時期の初期である。すなわち、極限られた期間の姿であった。西郷隆盛の奥さんが上野公園の銅像の除幕式で違うと口にした理由はここにあると思う。上野公園の西郷隆盛像や元となったキヨソネの絵は西郷従道と大山巌を合成したものだが、彼らも明治政府の高官として美食と運動不足にあって太めであった。
西南戦争での最後に城山で介錯されて頭と胴体が別れ、頭部だけを大事にもち去った。この後、頭部と胴体を確認する段階で、頭部は西郷隆盛の顔の特徴ですぐ分かったが、胴体の方は陰嚢水腫を患っていた陰嚢の大きさで決定したと言う(参考)。すなわち、他の人と区別できる程、巨体ではなかったことになる。西南戦争当時の薩摩士族は皆、精悍と言い得るくらいであり、太ってはいなかったと考えられる。
西郷隆盛の子孫の顔を写真で見ると現在の子孫の西郷隆文さんは太めで西郷隆盛の銅像や絵によく似ているが、彼以外の子孫達、特に二人の男子の写真を見る限り、細面の精悍なスマートな顔つきであった(参考)。
参考
① ルモンド紙における西南戦争当時の西郷隆盛(参考)
1877年(明治10年)、西郷は蜂起し『西南戦争』が勃発します。フランスの新聞社『ルモンド・イルュストレ』は速報記事を出し、そこに西郷軍の様子を絵にしています。
Takamori Saigō et ses officiers à la rébellion de Satsuma (1877)
挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」フランスの新聞雑誌(『ル・モンド・イリュストレ(』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である。(wikiより)
中央で座っているのが西郷隆盛ですが、今まで紹介したものに比べてずいぶんと痩せていますが、これには理由があるのです。
その結果、1日に5回も下剤を服用する過酷なダイエットを決行、数か月後には慢性的に痛みがあった身体も良くなったようです。
このように過酷なダイエットが影響して激ヤセしていた事が考えられる。
そうで無いとしても、他の兵士もそうてあるが、休み無しの戦闘で十分な休息と食事を摂っていないと考える方が自然である。
さらに、子供時代の怪我がもとで右腕が不自由になっていることも判別できる(参考)。
② ルモンド紙における開通直後の品川駅
③ 堺事件(1868年3月8日)
④東京遷都