西郷隆盛の写真!?明治天皇の造幣局行幸時(明治5年)の写真の左端の人物が西郷隆盛では!?と言うことで話題になっている。大阪造幣局・明治天皇ご来臨のため近衛兵整列(1872年)(参考)、大阪の鎮台の二小隊も加わっている。造幣局の記録では西郷隆盛と言うことになっているが、専門家によると本人は写真嫌い、体格ももっと大きかったはずで、本人では無いと否定している。この写真をよく見ると、左端の人物のみが菊の御紋の錦の旗を持つだけでなく、サーベルも下げている。他の人物でサーベルを持っているのは右の明治天皇の一行のみであった。そして、明治天皇の視線の先は左端の人物となっている。写真嫌いで別人に代わってもらったと言うのは、明治天皇に対して失礼過ぎるのでは無かろうか!?左端の人物が菊の御紋の錦の旗を持つ西郷隆盛!?左端の彼一人がサーベルを下げている。次に右に並ぶ二人の兵士はラッパを持つ少年兵、他の兵士達は銃を持っている。下の洋犬が愛犬か!?多くの資料より薩摩犬では無く、洋犬である確率がほぼ100%(参考)。この左端の人物の体型について、写真の左から比較出来る範囲の兵士の中では、身長は銃を持った兵士達と同じ程度であるが、肥満か何かによる腹の出具合は一番大きい。これに対し、他の兵士達はウエストがキュとくびれている。西郷隆盛が存命中の国の兵士達は幕末の官軍出身の選抜に合格して残留した者たちで、それも明治天皇の前に並ぶことの出来るエリート、すなわち近衛兵だったはずである。白い羽根のようなものを付けた帽子がエリートの証と思われる。また、一般の国民を兵にする陸軍とは異なり、体格が西郷隆盛に勝るとも劣らない者達だったと思われる。写真右端の真ん中の人物が明治天皇か!三人ともサーベルを下げている。写真の左端の人物のクローズアップ、西郷隆盛本人とすると当時46才くらい。ところで、この時期の西郷隆盛は肥満のダイエットに苦しんでおり、西郷隆盛は極めて巨体であったとは言い切れない。また、フィラリア感染症から象皮病を併発して陰嚢が肥大化していた。写真では陰嚢の肥大化までは確認出来ないが、白のベルトより下部がふっくらしていることは言えないことは無い。普通の肥満ならベルトより上の腹が膨んでハミ出る。左端の西郷隆盛と思しき人物の全身のクローズアップさらに、西郷隆盛は子供時代の怪我がもとで右腕が不自由になっている(参考)が、上の写真でも右腕をだらっと下ろしたままである。他の兵士達は右手で銃など物を持っている。参考 ① “本物”のせごどん? 造幣局行幸時の写真巡り論争「資料には本人」「写真嫌いで特徴違う」…件の1枚、公開へ産経新聞社(2018.4.16、参考)造幣局(大阪市)に保存されている1枚の写真が物議を醸している。写真嫌いで有名な西郷隆盛ではないかとされているためだ。専門家は体形的特徴などから別人説を唱えるが、資料には「西郷隆盛」とある。本人か、別人か。NHK大河ドラマで「西郷(せご)どん」ブームが続く中、期待を寄せる造幣局は18日から開く特別展で、この写真も公開するという。(吉国在)天皇写真家の内田九一氏によって明治5年に明治天皇が大阪を行幸された際に造幣局前で撮影されたとされる写真。旗を持つ左端の人物が西郷隆盛とされる(造幣局提供)「写真の左下で寝ころぶ洋犬」が根拠問題の写真は、1872(明治5)年に、明治天皇が造幣局へ行幸(ぎょうこう)された際に撮影された。1921(大正10)年発行の「造幣局沿革誌」では、左端の旗を持つ人物が西郷隆盛だと伝えられており、当時の新聞にも「錦旗を手に天皇を御先導した」との記述がある。また、記録などから、実際に西郷が明治天皇に随行して大阪を訪れたのは史実とされる。写真の左下で寝ころぶ洋犬が、犬好きの西郷を裏付ける根拠とする説もあり、造幣局側は「本物である可能性は捨てきれない」との見方を示す。西郷は大の写真嫌いだとされる。「醜態を極め、写真を撮るのはやめなさい」と大久保利通に手紙でたしなめたとも言われ、本人の写真は発見されていない。また、肖像画でさえも弟と従兄弟の大山巌を参考に描いたとされるほか、東京・上野の西郷像も、夫人が「主人はこんな人じゃなかった」と語ったという話が残っているほどだ。歴史的発見か 興味が尽きない1枚この写真が西郷と確認されれば、歴史的な発見となる。ただ、専門家は疑問を投げかける。「写真の人物は小柄すぎる」とするのは鹿児島県立図書館館長で志学館大学の原口泉教授。西郷の身長は178センチもあり当時体重は108キロで「周囲の大人と比べても特別に大柄とはいえず、本人ではないだろう」とみている。② 遺体確認の決め手は肥大化した陰嚢!? 糖尿病にも苦しんだ西郷隆盛の最期ヘルスプレス 2015年09月24日 21:02(参考)西南の役で自害した西郷隆盛、享年51。(shutterstock.com)徳川幕府の倒幕の大立者、明治維新の推進役といえば、何人もの多士済々の名が浮かぶ。だが、堅苦しい歴史学的な見立てではなく、庶民の人気や好感度から言えば、この二人に絞られる。「西郷(せご)どん」こと西郷隆盛と坂本龍馬だ。今回は、西郷隆盛の傑物ぶり、その生と死の真実に肉薄してみよう。ケンカの重傷で武芸の道を断念!ひたすら勉学した少年時代大久保利通、木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」と評価される西郷だが、幕末から明治を跨ぐ天地動乱の荒波をもろに冠った51年の生涯だった。1828(文政10)年、西郷吉之助隆盛は、鹿児島市加治屋町に下級藩士の長男として産声を上げる。11歳の時、ケンカの仲裁に入り右腕を刀で切られて骨折。その傷の後遺症で肘が曲がり、刀が握れなくなったため、武芸の道を断念し、学問に励んだ。16歳で年貢の徴収などに携わる郡方書役助(こうりかたかきやくたすけ)に着任すると、郡奉行の迫田利済(さこたとしなり)の「国の根本は農民」という信条に感銘を受け、薩摩藩主・島津斉彬に重用される。斉彬が急死すると、殉死を覚悟するが、清水寺住職・月照(げっしょう)に説得され、斉彬の遺志を継ぐことを決意。安政の大獄で月照の身に危険が迫り、月照が追放を命じられるや否や、藩に失望した西郷は月照とともに厳冬の錦江湾に投身自殺を図る。しかし、西郷だけが救出され、一時、奄美大島へ潜伏。後に大久保らの尽力で帰還した。だが、斉彬の跡目を継いだ弟の藩主・島津久光との不和が深まり、徳之島や沖永良部島へ流される。フィラリア感染症から象皮病を併発、陰嚢が肥大化!沖永良部島での獄舎生活は、衛生環境や栄養状態も悪く凄惨を極めた。身長179cm、体重108kgの巨漢も、見る影もないほどに痩せこけた。しかも、バンクロフト糸状虫という寄生虫に侵され、リンパ系に大きなダメージを受ける風土病・フィラリア感染症を発症。その後遺症から、皮膚や皮下組織が象の皮膚のように硬くなる象皮病を併発し、肥大化したカボチャ大の陰嚢水腫に苦しんだ。晩年は、陰嚢がじゃまになって馬に乗れなくなり、駕篭に乗っていたという、まことしやかな風説がある。その後、配流を赦免された西郷の活躍はめざましい。第一次長州征伐の平和的な解決を皮切りに、1866(慶応2)年、坂本龍馬の斡旋で長州藩士・桂小五郎と薩薩同盟の密約を成立させる。大政奉還の推進、鳥羽・伏見の戦いの勝利、勝海舟との会談後の江戸城無血開城に続き、戊辰戦争に参戦。参議としては廃藩置県や学制の制定などの内政改革を主導、陸軍大将としては軍政を刷新するなど、明治維新後の政治の大舞台は西郷の遠心力なしには回らなくなった。肥満に悩みつつ、ひまし油を飲み、ダイエットも試みた晩年!だが、難局が訪れる。朝鮮の国交回復問題で、西郷は板垣退助が主張する兵隊派遣に強く反対し、平和的な遣韓大使の派遣を主張する。しかし、大久保利通や岩倉具視らと対立して下野。故郷・鹿児島に戻り、私学校での教育に専念する。郷土の名産・黒豚料理や甘い物が大好物の西郷は、陸軍中将・高島鞆之助の証言によると、肥満に悩んでいたフシがある。1871(明治4)年に来日したドイツ人軍医のテオドール・ホフマンの減量治療を受けながら、下剤(便秘薬)のひまし油を飲んだり、狩猟に出かけて運動に精を出したという記録がある。ひまし油は、トウダイグサ科のトウゴマの種子から採取する植物油だ。その薬剤効果が働いて、便秘の不快な症状を和らげたり、一時的に滞留便の排泄に効いたかもしれない。しかし、肥満の解消も、ダイエット効果も、今ひとつだったようだ。首のない遺骸、陰嚢水腫の痕跡、右大腿部の銃創!1877(明治10)年、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの不平士族の反乱が頻発する。西郷を疎ましく思っていた政府は、密偵団を差し向け、西郷暗殺の密令も出している。折しも、政府の挑発に乗せられた私学校の生徒らの暴動が誘い水になり、西南戦争が勃発。西郷も先陣へ。田原坂(たばるざか)の大激戦などを経て、城山に籠城する。『南洲翁遺訓』や『西南戦争と県令岩村通俊』などの記録によると、9月24日午前4時ころ、政府軍の集中砲火が城山を貫く。西郷に付き従った人々は40余名。「潔く死のう」と決意を固め、下山して進撃するが、西郷は肩と右大腿部に被弾。傍らにいた別府晋介に「晋どん、もうここいらでよか」とつぶやく。別府は涙を流しながら「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねる。うどさぁ(偉大)な南洲翁の壮絶な最後だった。なぜ首のない死骸が西郷と分かったのか?それは巨大な陰嚢水腫だった。一方、西郷の首は、折田正助邸門前に一旦埋められる。戦闘終了後、西郷の首は発見され、政府軍の総指揮官・山縣有朋が検分。後日、亡骸とともに、南洲墓地に手厚く埋葬された。死後およそ140年――。鹿児島県人はもとより、西郷どんの人気は衰えない。人々の人望や信頼を集め、明治維新を成し遂げる原動力になった。「死地に入ってこそ、道が開ける」が終生の信念だった。日中韓同盟やアジアを視野に入れた壮大な国家計画。私利私欲に執着しない潔さ。何事も受け容れる度量の広さ。薩摩男の清廉誠実、質実剛健。その人間くさい魅力は、いくら言葉を重ねても言い尽くせない。錦江湾に腰を据える桜島のように、幾世紀も日本人の心に生き続けるだろう。次回は、西郷どんと幕末を駆け抜けた風雲児、坂本龍馬を取り上げよう。(さとう・ひろし)大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。③ 西南戦争当時の西郷隆盛(参考)1877年(明治10年)、西郷は蜂起し『西南戦争』が勃発します。フランスの新聞社『ル・モンド』は速報記事を出し、そこに西郷軍の様子を絵にしています。中央で座っているのが西郷隆盛ですが、今まで紹介したものに比べてずいぶんと痩せていますが、これには理由があるのです。1873年(明治6年)、西郷の肥満っぷりを心配した明治天皇はドイツ人の医師ホフマンの診療を受けさせます(明治天皇は西郷の事が大好きでした)。その結果、1日に5回も下剤を服用する過酷なダイエットを決行、数か月後には慢性的に痛みがあった身体も良くなったようです。このように過酷なダイエットが影響して激ヤセしていた事が考えられます。注: 西郷隆盛は明治4年(1871年)1月に参議として新政府に復職し、明治6(1873)年10月23日、辞表を提出し、鹿児島へと帰郷しました。また、医師ホフマンは明治4年には来日しているので、西郷隆盛のダイエットは明治4年から5年の間には完了したと考えられる。また、子供時代の怪我がもとで右腕が不自由になっていることも判別できる(参考)。④ 造幣局での親兵の制服西郷さんは明治4年1月に上京し、2月13日に親兵を結成している。制服はこの時までに作ったとすると、明治4年に制定する御親兵徽章で定める制服の暫定バージョンだったことになり、当初は全員一律で、階級章などが付かなかった可能性がある。⑤ 近衛師団(このえしだん、コトバンクより)近衛連隊に各兵科を加えて編成した師団。1872年(明治5)3月の近衛条例制によって近衛局が設置され、山県有朋(やまがたありとも)が近衛都督に任命されて、従来の親兵を近衛兵と改称しその指揮権を委任された。同年7月には西郷隆盛(たかもり)が元帥となって引き継ぎ、88年5月に近衛兵は近衛師団に改編された。近衛師団には全国から優秀な兵士が選抜され皇室の守護と儀仗(ぎじょう)を主任務としたが、日清(にっしん)、日露の両戦役には台湾、満州(中国東北)方面にそれぞれ出征、その後、日中戦争などにも参加した。師団司令部を皇居北の丸に置いた。[纐纈 厚]⑥ 明治天皇の大阪造幣局への行幸のとき西郷隆盛はまだ「供奉ノ官員」の立場であり、都督にはなっていないwikiでは、初代: 山縣有朋 中将(1872年4月16日 - 1872年8月22日)(兼)二代: 西郷隆盛 元帥(1872年8月22日 - 1873年10月24日)(欠 1873年10月24日 - 1874年2月8日)⑦「明治天皇大阪行幸誌」P100 (川村大志さんより)明治5年6月5日のくだりは、「前後を近衛兵、鎮台の騎兵と鎮台の守衛各々一小隊に守られて造幣局に到着。供奉官とともに視察」とある。大阪造幣局の写真では、近衛兵と陸軍の鎮台の騎兵と守衛の三小隊が並んで居る筈であるが同じ制服となっており、まだまた発足間際で組織が完成していないようだ。⑧ 西郷隆盛の新たな肖像画発見 NHKによる仕掛けなのか?、、、、この絵もダイエットの前の姿NEWSポストセブン(2018.1.25、参考)東京・上野公園の西郷隆盛像の除幕式で、像を見た隆盛の妻・糸子は「うちの人はこんな人じゃない」と取り乱したとされNHK大河ドラマ『西郷どん』のプロローグもその場面から始まった。実は西郷隆盛の写真は1枚もなく、生前に描かれた肖像画も残っていない。上野の銅像はイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画をベースにしているが、キヨッソーネは西郷本人と面識はなく、弟の西郷従道や従兄弟の大山巌をモデルにしたといわれる。そんななか、1月4日の情報番組『ごごナマ』(NHK)で、新たな肖像画が発見されたと報じられた。番組では作品のコピーをスタジオに用意し、船越英一郎が「全国的に初公開です」と言って黒いベールを外し、ドラマで西郷役を演じる鈴木亮平らと盛り上がった。しかしながらこのタイミングだ。まるで1月7日から放送開始した『西郷どん』に合わせたかのようである。肖像画は現在、鹿児島市にある「西郷南洲顕彰館」で保管されている(「南洲」は西郷の号)。この肖像画の持ち主である鹿児島県枕崎市在住の丸谷昭子さん(83)が語る。「小さい頃から、祖父が『これは西郷さんを描いたものだ』と言っていました。家の仏間に飾ってあったんです。昨年秋頃、明治維新150周年や『西郷どん』などで西郷隆盛が話題になっていたため、この肖像画がどういうものか気になり、知人を介して顕彰館にお持ちしたんです」以下省略※週刊ポスト2018年2月2日号